ともに歩んだ研究所 ・・・・・三井建設(株) 矢作和久

 写真は三井建設の技術研究所である。この建物の設計も施工も私ではない。しかし、「自分史」において、「あなたの作品は」と質問されれば最初に挙げたいのはこれである。
 研究所という組織の編成は昭和50年で、それまで土木と建築に分かれていた研究開発組織を一体にして発足した。会社に入って12年目、主任研究員として研究所の一員になった。年代的に、新設組織の企画要員として適当であったのか、用地探しの段階から新施設建設に参画した。この建物の一期工事の完成が昭和55年で、以後20年近く、千葉県流山市に通うことになった。以後の建物も、組織も、仕事の仕組みも、そのとき、そのときの幹部たちと一緒に作りあげていった。所員の採用も重要な仕事で、フレックスタイムも優秀な研究員採用を目的に取り入れさせてもらった制度である。当時、研究開発組織は脚光を浴びていて、研究所員も発足時約40名であったのが、平成3年には100名を超え、平成5年には130名に達した。研究開発予算も年々、拡大していった。しかし、この年度が最盛期で、このとき研究所長をしていた。充実した、忘れられない時期である。
 そして「バブル」の崩壊。予算削減は、苦労はするが心の痛手にはならない。人の削減は苦痛を伴なう。最初は実験要員10数名に辞めていただくことから始まった。現在65名、長年一緒に仕事をしてきた仲間に他の会社に行ってくれるよう通告するのはたまらない。
「仕事獲る人、獲りやすくする人。利益出す人、出しやすくする人」と言う。アシストがあってこそ、仕事も獲れ、利益も出るものと信じている。間接的ではあっても、技術研究所の存在は企業活動に多大な貢献をしてきており、今後も存在理由がなくなることはあるまい。しぶとく存続していって欲しい。 
 
三井建設の技術研究所全景