施工担当者として、実際の現場を担当した者にとっては携わったプロジェクトについては、記憶に残るどころか、殆ど忘れられない、濃密な記憶である。
特に若い頃の徹底的な所謂「おいまわし」世代の記憶は鮮明である。仕事に携わると言うよりそこで生活をしていた、プロジェクトと一体となって生活をしていた。建物の隅から隅まで、地下の小便くさい穴倉から華やかなメインロビーまで、毎日足を棒にして歩き回り、体に染み込んだ思い出である。時には設計者よりも思い入れが深いのではないか、と考える位密度の濃い係わり方であると思う。文字通り生活の場であり、仕事以外に現場の同僚や近隣の方々の思い出や周辺の飲食店、紅灯の巷での羽目をはずした記憶も直ぐに甦るのである。
・ 武庫川学院本館
42年前入社して構造設計者の足を洗って最初の現場である。第二阪神国道に面し、女学生に囲まれた仕事であり楽しい環境であった。技術的には当時としては天然軽量骨材を使った軽量コンクリートの施工がポイントであったが、施工技術としては打撃式ペデスタル杭、ガイデリックを使った鉄骨建て方、リベット工法などクラッシック工法の最後を経験した。もちろん関西の紅灯の巷も十二分に味わう事が出来た。阪神淡路大震災の時は、心配したが無事であった。現場員としては若造でも責任を感じる仕事を担当していたと自負している。
・ 埼玉会館
昭和41年の竣工である。かの前川国男先生の集大成的な作品である。広大なエスプラナード、大ホール。小ホール、管理棟などで構成されている埼玉県民のいこいの場、東京文化会館の次の作品である。お金が無くて少数精鋭?主義の現場で一人で鉄筋、鉄骨係、大ホール、小ホール担当と厳しく、楽しい仕事であった。外装は打ち放しコンクリートと打ち込タイル、芸術作品であり前川先生の謦咳に接することが出来た。
・ 仙台第一生命タワービルデング
昭和60年の竣工、始めて責任者として担当した建物である、東北、仙台始めての超高層ビルである。仙台に単身赴任して、仕事も遊びも快調な思い出である、当時は首都圏では不景気でまとまった仕事の無い時であり、技術的にも思う存分試みる事が出来た。
その他に、駒場の日本近代文学館、茨城県の大洗での原子力施設、鎌倉の女学校などなど全部良く憶えている、何より幸せな事は殆どみんな現役で残っている、何時でも見に行けることである。
所長時代の作品は、東京ドーム、大手町ファーストスケアーなど若い時とは別の苦労と喜びが多く、これもまた忘れる事が出来ない。
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