山止め支保工の変遷
山止め壁の変遷に連れて支保工も発展した。
1.戦後の初期段階
殆ど物資不足のなか系統的な工法と言えるものは無く、大型の木材、尺角、五平を原寸に合わせて現場加工、大工と土工と鳶が協力しセットし、楔を効かして変形を押える工法であった。その後、木材の代りに鋼材の本線レール、Iビームなどの型鋼をそのまま用いケースが多くなった。組立て鋼材ではないため長いスパンの架設が出来なかった。そこでゼネコン各社は会社独自の組立て式の組立鋼材の切梁を製造し長スパンの架設を試みていた。
この時代の切梁は楔を効かすだけで、ジャッキなどによる所謂プレロード機能がなく、大きな変形を防止出来ず、また広い面積に架設する支保工が困難であった。
* アイランド工法
この時代の技術レベルから必然的生まれた工法がアイランド工法である。長スパンの切梁が不可能であるためオープンカットで可能な建物の部分を先行して作りそれを反力に短い切り梁を架設し残りの部分の根切りを行う工法である。当時の広い面積の根切り工事は殆どこのアイランド工法で施工された。この工法は建築躯体に多くの打ち継ぎ部を作り、かつ根切りが2回に分断され、工期も長くなり、打ち継ぎ部の品質確保も大変で苦労が多かった。また必然的に大きな車路桟橋が必要となる工法でもあった。
2.高度成長期
建設活動が活発となり、大型ビル、地下の深い建築の需要も増え、広い面積の掘削をアイランド工法のみで対応するのは工期が長くなり時代に合わなくなった。生産が開始された広幅のH型鋼を用いたリース方式の鋼製組み立て支保工が市場に進出し、瞬く間に広がり占有した。
* 鋼製組み立て支保工(リース方式)
高度成長期から現在まで腹起し切り梁といえばこの方式に定着した。広い面積の長い切梁の変形量を少なくする為にキリンジャッキを組み込み若干のプレロードができる。また切梁を集中させ剛性を上げて変形制御すると共に掘削開口を大きくし工事のスピードアップを図る工夫などの集中切梁工法も普及した。この工法により周辺地盤の変形は大きく改善し工期の短縮も図られた。広瀬鋼材、山本建材リースなどの専業会社が出現し独自の 方式競い合った。
* バックアンカー工法
背面土層に削孔し、良質の地盤にアースアンカーを定着させ、土圧に対し切梁の変わりに抵抗し、更には地盤全体の安定を図る工法である。
もともとは傾斜地盤の掘削のように切梁を架設出来ない、し難い場合の工法であるが、広い面積の掘削には変形が少なく、工期も早く最適な工法である。ただ背面の地盤にアンカーを設置するため隣地の了解や道路管理者の了解が必要となり実施困難なケースも多い。
特殊工法の変遷
日本のゼネコンは都市部の軟弱地盤での深い掘削に対して戦前から戦後の物資の少ない機械力不足の時期にも独特の工夫を重ね可能性を追求し挑戦を続けてきた。中でもユニークなものが竹中式潜函工法であろう。
1.竹中式潜函工法
昭和25年1月日活国際会館が着工した、地下4階、−17.4m、建築面積4,116平方メートル、延べ5万平方メートルの大型ビルであり、日比谷交差点の一角にあり、地質は軟弱な有楽町層である。この年の6月に朝鮮戦争が勃発し、これを機に目覚しい復興が開始された時期である。当時の技術で、物資欠乏の中で通常の山止め工法を用いて挑戦することは、不可能ではないが非常な困難が予想された。竹中は戦前の昭和10年頃から潜函工法に取り組み、上野松坂屋、銀座松坂屋などの工事で1部成功を収めていた。工法の特許取得など技術の蓄積もあり、日活国際会館を潜函工法で実施することに挑戦し見事に成功した。沈下作業開始12月25日、翌6月17日潜函定着という工程であった。この年に対日講和条約が調印された。この工法は世間の注目を集め、毎日工業技術賞を受賞、施工部門としては珍しく日本建築学会賞を受賞している。この工法は潜函体の自重で土を破壊しながら沈下させる工法であり、一見乱暴のようであるが、各土層の力学的な性質の綿密な調査、周辺地盤の沈下の制御、潜函体の沈下のコントロール、歯形の設計などきわめて精密な調査、計測によって実施されたものである。この工事の周辺地盤の沈下量は最大で18cmと当時としては少なく成功裏に終わった。 この工法は東京ではその後数件の工事で実施され日軽金本社ビル(昭和36年)を最後に、大阪では第一生命、阪急百貨店などの工事に採用されが、周辺地盤の沈下量は大阪では最大1mを超すなどと建設公害に対する許容値が年々シビアーになり、逆打ち深礎工法にその役割を譲ることになった。
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