「アフガニスタン復興支援事業に参加して」・・・・ 田中正美

 2002年の3月、私は日本赤十字の二人の医師とアフガニスタンに向かっていた。2001年10月にタリバン政権が崩壊し、11月には暫定政権が発足して国際社会の協力で復興が始まっていたので、もしかすると、という予感があったがそれが的中して、「田中さん、アフガニスタンの病院の改修をやってくれますか」と日本赤十字からお声がかかった。1979年のソ連侵攻からの17年間の内戦、その後のタリバン政権による圧政によって国の経済は破綻し、インフラストラクチャーは破壊され、公共施設の多くが劣悪な状態になっていると報じられていた。タリバン時代から継続してきた救援活動の拡大を目指す国際赤十字から、北部アフガニスタンのクンドゥスとタロカンの二つの国立病院への救援事業の分担を要請された日本赤十字社が、施設改善の担当を私に依頼してきたのだった。日本赤十字の事前調査によれば、両方の病院とも医療サービスのレベルは低く施設は老朽化したままで放置され特に衛生状態が劣悪になっているとの事であった。前回のコソボ救援活動より生活は厳しく仕事は難しそうだった。今のイラクのような戦闘状態にはないが、日本政府の退避勧告地域に指定されている。リスクは当然自己責任である。しかし国際赤十字の厳しい安全管理のマニュアルに従えば多分大丈夫だろう。参加する決心をした。
 東京を発ち、香港経由アラブ首長国連邦のドバイへ。数時間の乗り継ぎでパキスタンのペシャワールに飛ぶ。一泊してアフガニスタンのビザを取得。ここから国際赤十字の乗客7人乗りのビーチクラフト機でアフガニスタンの首都カブールに入る。国際赤十字のアフガニスタンの本部でブリーフィングを受け、翌日再び赤十字機で北部の中心都市マザリシャリフに向かう。ここで一泊した後トヨタのランドクルーザーで悪路を6時間揺られてクンドゥスに着く。タロカンへは更に1時間以上かかる。砂漠あり、緑の麦畑あり、裸の山あり、崩壊した日干煉瓦造の村落あり、棄てられたソ連の戦車あり、野天の学校ありと、変化に富んで飽きることのない道筋だったが東京からは遠かった。その年の9月に再訪した時にはクンドゥスの空港が再開されていて、カブールから直接入れるようになり飛躍的に便利になっていた。
 クンドゥスの人口は約27万、タロカンは約24万。ともに素朴で貧しい田舎町で、パシュトゥン人のほか、ウズベキ人、タジク人、ハザラ人など多様な民族が住む。北はウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンに接し、物資もパキスタンやイランからより、これらの北の国から多く入って来るという。郊外の村落の破壊は激しく、多くの村が廃墟となっていた。
 町の中心部では内戦による破壊は殆ど見られない。しかし長期間の紛争のためインフラの整備は全く忘れられ、舗装道路は幹線道路一本だけ。それも穴だらけだ。庶民の足は馬車、運搬は驢馬。これらの行き来で空気は土埃に満ちている。人々の服装は貧しく汚い。銀行も電話もなく、当時未だTVとラジオの放送や新聞もなかった。食文化は低く食事は単調。電気は一日に2〜3時間くらいしか来ない。赤十字の事務所・宿舎や地元のお金持ちは発電機を持っているが、貧しい農村などにはもともと電気は来ていない。水道は無い。自分の井戸を持てない人は街角や村の中心にある共同井戸に水を汲みに行く。その役目は決まって小さい子供達だ。一番の問題は排水で、処理施設などないから、汚水も雑排水もすべて地中に浸透させるだけである。衛生状態が悪いのと医療サービスのレベルが低いのとで、平均寿命は44歳、幼児の30%が5歳以下で死亡する。国際社会による人道的援助の必要性を痛感させられた。
 病院を見に行って暗然とした。トイレと排水施設が恐ろしく不潔なのだ。内外装が痛んでいることや医療機材や家具が古くて粗末なのは我慢出来ても、トイレの不衛生は病院にとっては致命傷である。一般の住宅や、学校や、刑務所などのトイレは非水洗で別棟になっているが、病院の患者トイレは同じ建物内にあり元々水洗式に作られていた。しかし今ではハイタンクは破損したまま、手洗器や水栓も外れていたり壊れていたりで使えない。井戸も高架水槽もあるのだが給水管が破損しているらしく水が出ない。私の最初の仕事は、2つの病院の合計11箇所のトイレの改修だった。
 続いて幾つかの新築の建物を設計した。現地のエンジニアに教えてもらいながら設計したRC補強煉瓦造のローテク建築である。人道的救援事業の建築のグレードは通常の経済協力案件の建物よりはるかに低い。しかしいかに現地の材料と工法を活用して、現地の人々のべーシックヒューマンニーズを満たす建物を作るかを考えるのは遣り甲斐のあることであり、また日建設計で専らプロジェクトの統括に携わっていた私にとって自分で計画し図面を書きBQを作るという仕事は実に楽しいことだった。結局現地に3回出張し、生活に十分な住と食はあるが他に何もなくただ夢中で働く各々約1月のSimple Lifeを送った。忘れ難い体験だった。そしてこの小さな建物が私が設計に携わった最後の仕事となるのだろうと思っている。

国際赤十字機と筆者

内戦で廃墟となった村落

街の風景

病院のトイレの現状

新築の厨房・洗濯室棟