「次世代へ何をつなぐか」・・・・田中享二

 新しい世紀が始まった。だからといってどういうこともないのだが、今までそれぞれの世紀には特徴があったので、どういう世紀になるのかがちょっと気になるのである。20世紀は結果としてそれなりの特徴があったように思える。要約すれば経済と科学技術急成長の時代であった。さらにグローバル化という大きな流れの中で、日本も良かれ悪しかれその渦中にあった。帝国主義に乗り遅れまいとして戦争に突入し、戦後も右肩上がりを是と信じ、科学技術を背景として経済的繁栄に邁進していた時代であった。そしてそれは実際活性化し、我々建築関係者もその恩恵をこうむった。がしかしそれは瞬間的に幸せを感じさせたかもしれないが、結果として環境問題という大きな課題を21世紀に持ち送ることになった。建築に関して言えば、建築物の回転を早くしてしまった。そのため建物のライフが、極端に短くなった。調査によれば、住宅も含めると40年程度の平均寿命とのことである。英国約140年、米国約100年に比べるといかにも短すぎる。
 環境問題の解決手法はいろいろあるが、最終的には建物を長く大事に使うことに尽きる。勿論リサイクルも大事な側面であるが、そのためにかえってエネルギーを多量に使うこともあり、決定的な切り札とはなりえない。
 それではわが国の建築技術はそんなに脆弱なものであったか。そんなことはない。ちょっと古い町にゆけば、江戸、明治の民家はたくさん残っている。そして100年、200年はざらである。寺社にいたっては、途中修理修繕はしているが1000年を超えるものもある。決して棟梁や匠の技術が低いのではない。それでは今の建物がいつこんなにライフが短くなってしまったのか。そしていつからそのことに我々は飼いならされてしまったのか。
 筆者は大学で建築材料を教えている。石材、コンクリート、鋼、木材。どれをとっても50年や100年でどうかなるような素材ではない。おかしな使い方をしなければ、少なくとも世紀の単位で長持ちする。ライフの短いと思われているゴムやプラスチックのような有機材料だって、うまく使ってやれば50年や100年はびくともしない。素材が本来備わっている力はそうなのだと説明するが、現実には全然そうなっていないことは、ご存知のとおりである。今の建築が素材の本来もっている力の全部を引き出さずに作られていることに、ある種の後ろめたさを感じながら、学生達への講義は続けている。
 最近、環境負荷評価の手段として、例えばライフサイクルCO2、あるいは消費エネルギー計算等の手法によりその問題を字で表し、何とか環境負荷を低減させようとの努力がなされている。良いことだと思う。実際試算例をあちこちで見かけるようになった。ただ残念なのはその期間がせいぜい100年程度で打ち切られているものが多いことである。まだ経済尺度でしか建築を見ないという習性から抜け切れていないのかと、少しさびしい気もする。すごく月並みな言い方であるが、もう一度建築は誰のためにあるのかということに思いを馳せる必要があるのではないか。今の我々だけと同時に、次世代、次々世代と、次々と続く人たちのためにもあるのではないか。最近、数世紀も建ち続けた建築が、どうしてそんなに長い間生き延びえたのか、興味を持ち始めている。現存するのは、かっての金持ちの建築だからそんなことを調べても、何の役にも立たないというひともいるが、今の我々は絶対値としてみれば、当時の金持ち以上の生活をしているはずだ。だとすればそうピントはずれでもないだろう。
 先日、興味深い本を読んだ。藤森照信さんの「天下無双の建築学入門」である。最後の章にこんなことが書いてあった。建物や町並みに懐かしさを感じるのは人間だけだそうである。しみじみとした感情をもつのは人間だけだそうである。それは自分の世界の安定と連続を、建築や町並みが喚起させるからだそうである。確かにそういわれれば、思い当たる。世代を超えてひとびとの記憶をつなぐ装置としての存在が、結果として環境への負担も軽減させる。環境を壊したくないと思うのは、我々のDNAのどこかにそのような作用をもつパーツが組み込まれているからに違いない。それが今目覚めようとしている。何代にもわたって人間を包み込む建築はどうあるべきか、100年程度のライフに留めるのではなく、思い切って長いスパンで考えてみる必要があると思う。