記憶に残る私の仕事 「フィジー初の大型冷凍・冷蔵庫建設」・・・滝澤清治

施工中の現場
屋根下地(ドリゾ−ル)の施工をする現地の労働者
ホテルの娘さん、ヴェアレンス(ドイツ系)と、私27才
 私は、今では住宅を主体とした活動を行っていますが、1963年、大和ハウス工業(株)東京支店海外部の設計責任者をしていました当時、東南アジアを中心とした賠償対応や企業進出の為の建築工事が多く計画され、商社や進出を計画している企業からのオファーは、建築の設計と鉄骨の生産等建築資材調達によるFOB(船積まで)と現地でのスーパーバイズが主体となるものでした。
 これらの方式により、ボリビア、ラパスの日東鉱業亜鉛精錬工場、インドネシアの北スマトラ石油精製工場事務所及び工場、インドネシア、ジョクジャカルタのシルク・ジャガード織及び染色工場、フィリッピンの小学校、カンボジヤの診療所、タイ、バンコックのいすゞ自動車工場等が有り、地域も広範囲で関係法規、言語も多岐に亘り、これらを集めるだけでもおおごとで、かつ、多様な業種の建築の為、依頼主や関係機械メーカーから教えていただく日々の連続でした。
 その中に、日本の中堅商社とアメリカ系企業との合弁による、フィジーPAFCO(パフコ)社から、南太平洋を漁場として獲れるマグロの冷凍、冷蔵及び製氷棟の建築設計と請負工事の依頼があり、冷凍庫などそれまでは関心を持って見ていなかったので、東北各地の施設を見学したり、輸送と現地での施工が簡単な断熱材の研究、保冷計算等に触れることにより、−35℃の世界について色々な体験を積むことができました。
 フィジーには240程の島々が在り、建物はその島の一つである、オバラウ島(首都の在るヴィテレブ島の東約10km程、淡路島程の大きさで人口約1,500人)レブカの港に隣接し、15mスパン3連の急速冷凍冷蔵庫と10mスパン2連の製氷室と発電室で延べ面積1,850m2、フィジー初めての大型冷凍庫で工事中、女王陛下の名代である総督閣下(250年程前宣教師を食人した時の賠償金が払えず国を売った為英国の直轄植民地となったが、最近独立した。今回の騒動はフィジアンと移民したインド人の主導権争い)の視察が有った。
 私自身は、63年11月から64年4月までの6ヶ月間滞在し、その間ケネディー大統領の暗殺、資材倉庫の火災、工事の着工が遅れた為に帰国が延びて自分の結婚式の日に帰れなくなる等、自分にとっても思いで深い、いつまでも記憶に残して置きたい仕事であった。