「国宝建築を見終えて」・・・・ 菅澤光裕

 すでにサーツ会報019号の歴史的建築研究会たよりとして書きましたし、「完全制覇 国宝建築物」という気恥ずかしいテーマのセミナーも実施いたしましたので、ご存知の方も多いと思いますが、長年取り組んでいた古建築の見学で、特に力を入れた国宝建築物について、昨年全件を見終わることが出来ました。今回はその感想などについて話してみたいと思います。
 セミナーの中でお話したことですが、国宝建築とは文化財保護法という法律で規定されるもので、まず文化財には5つのジャンル(有形文化財・無形文化財・民俗文化財・記念物・伝統的建造物群)があります。有形文化財は建造物や美術工芸品などを指し、その有形文化財の中で、歴史的・美術的・文化的に重要なものが重要文化財に指定されます。その中の特に重要なものが国宝に指定されるのです。現在、国宝に指定されている建造物は211件あります。結果として有名な神社仏閣などが多いのですが、有名か無名かはあまり関係ありません。皆さんは東京都内に1件しかない国宝建造物を御存知でしょうか?多くの方々は御存じないと思います。(東村山市にある室町時代建立の正福寺地蔵堂)
 国宝建築を見て歩いていて一番強く思うのは、「よくぞ残った」という感慨です。規模が大きく持ち運べない建造物は、特に火災に弱く、古いものが残りにくいという宿命を持つのは当然です。しかも日本の歴史の中では何度も古建築にとって受難の時期がありました。古いところでは、平安末期(平重衡)と安土桃山期(松永久秀)の二度にわたる南都(奈良)の焼き討ちや、京都洛中を焼け野原にした応仁の乱などが筆頭でしょう。しかし二度の南都焼き討ちでも東大寺法華堂は残りました。応仁の乱のために残念ながら京都洛中には鎌倉時代以前の建造物はほとんど残っていませんが、三十三間堂や大報恩寺(千本釈迦堂)は残りました。織田信長による近江〜比叡山一帯の焼き討ちでも多くの寺院が失われましたが、西明寺や金剛輪寺は残りました。
 比較的近いところでは、明治初期の神仏分離令に端を発した廃仏棄釈(仏像を打ち壊し経典を捨てる)による仏教寺院の荒廃や戦災が筆頭格です。廃仏毀釈ではいくつもの寺院が廃止されました。興福寺では五重塔が二束三文で材木商に売却されましたが、幸いなことに解体にあまりに多額の費用がかかることが判明したため、この材木商は五重塔を放棄してしまい、現在でも国宝五重塔を見ることが出来ます。戦災では、空襲などで東京をはじめ、多くの都市が灰燼に帰して、同時に多くの古建築が失われました。名古屋城とその御殿はS20年5月の名古屋空襲で炎上し、広島城は原爆で吹っ飛びましたが、広島の不動院や長崎の大浦天主堂は残りました。
 ところが、今日では経済性の名のもとに古い建造物が容赦なく建て替えられて、急速に姿を消しつつあります。日本は世界の中でも古く立派な歴史を持っていますが、その割りに国民の歴史に対する認識が薄いように思います。ヨーロッパやアメリカでは、歴史の浅い国でも(だからこそかもしれませんが)歴史的建造物に対する愛着は相当なものです。第二次大戦で徹底的に破壊されたワルシャワの町を昔の絵を元に忠実に復元した(現在のワルシャワの街はこうして建設されたのですが)というようなことを、我々日本人は全く考えようとはしません。良い悪いは別として、欧米の感覚では、都市や町並みの記憶は自分たちの心の拠り所、又はアイデンティティになっているのではないでしょうか?
 私は古建築を通じて、時代の波をくぐり抜けてきたクラシック(本来はクラスの形容詞で一流のという意味を表す言葉)なものの良さを知って欲しいと思っています。時間の力というものは非常に強く、時代による価値観の変化と共に消えていってしまうものは数限りなくあります。残り方は様々ですが、長い時間に耐えて残ったということそのことだけでも、価値があるということを理解して頂きたいのです。