「生産工学を超えて」・・・・小見康夫

 先日、ある印刷機械工場を見学した。建材の工場は今までかなりの数を見てきたが、異業種の、それも最新の工場を生で見るのは久しぶりで、そのハイテクぶりに驚いた。ところが、そこの技術者から「建築の方がずっと難しいのではないか」という趣旨の質問があり、二重の意味で驚いた。相手の意図を正確に理解したかどうかは心許ないが、それはさておき、本当のところはどうなのだろうか?
 この種の問いは「犬と猫とどちらが優秀か?」と同じで、一般には不毛な議論である。しかし、構造解析や環境制御などの分野において自負すべき先端技術を有している一方で、体質の古さや非効率さが内外から常に批判されるところとなっている建設業を、他の業界と比べることは決して無意味ではなかろう。特に昨今では、製造業やサービス業の今後を考える上で、建設業がモデルになるとの意見も聞かれる。そこで今一度、これらの意味するところを考えてみたい。
 建設業が他の産業より進んでいるとみるとき、概ねその根拠となるのは、多品種少量生産への対応において建設業に一日の長があるという主張である。製造業と同様、フォーディズムを範とした20世紀の工業生産システムを目指しながら、結果的にそれらと一線を画し一品生産の道を進まざるを得なかった建設業が、気が付けば多品種少量生産に転換しつつある製造業の先を歩いているという構図は一見わかりやすい。しかし、建設業が一品生産システムを洗練・高度化させていったかと言えば、例えば、過去30年の労働生産性の伸びが(農林水産業・鉱業を除く)全産業の中で最も低く、1970年に比べて1.2倍程度でしかない(全産業平均で2.4倍、輸出主導型製造業で約7倍)という統計を見ても疑わしい。あるいは小規模な建物の設計実務でちょっとした特注部品を計画すると、とんでもない見積もり額を提示されることは日常茶飯事で、実感としても建設業の生産システムが進んでいるとは思えない。もしそういった洗練・高度化があるとすれば、それは大手ゼネコンによる大規模プロジェクトの生産管理、あるいは大手住宅メーカーによる邸別生産のような場面においてであるが、それらは「一品」というより「規模」の意味においてなされたと考える方が適当であろう。
 数年前に給湯器メーカーの工場を見学した時、ラインを流れる製品が1つ1つ異なる「完全混流ライン」に感心した。多品種を前提とした場合、ライン稼働の平準化を考えれば、同じ品種毎にロットで流すよりもバラバラに流す方がむしろ効率的であると言う。少なくとも多品種少量生産という意味では、「かんばん方式」の流れを汲むこうした日本発のフレキシブルな生産システムが既に先鞭を付けている。あるいは多能工化が不連続な形でしか進まない建設業を尻目に、商品サイクルの短いエレクトロニクスの分野などでは、固定費を縮小すべくライン型生産から多能工によるセル型生産への変換が進んでいる。いずれにせよ、厳しい国際競争下に晒されている製造業に対し、土地や労働力の非流動性によって競争から守られてきたわが国の建設業が、生産工学的な意味において範を示せることは今のところありそうにないというのが実情ではなかろうか。
 話は変わるが、昨年来、日曜日のゴールデンタイムに某テレビ局で住宅リフォームのバラエティ番組が放送されている。様々な事情でリフォームを余儀なくされた家が、「匠」と称される建築家により見事に生まれ変わる話で、施主が感動の涙を流して終わる展開になっている。バラエティ特有の過剰な演出にやや辟易し、チャンネルを回しつつ斜に構えて見ることが多いが、周りに聞くとこれが実に好評である。よく見ると、「匠」は設計図など手にせず、自らの手でひたすら家を壊し、廃材を前に思い悩み、それらを蘇らせる職人として描かれており、それが視聴者の共感を呼ぶと同時に、思いもつかない再生法に畏敬の念さえ抱かせるらしい。そこには、建築の方が難しいと感じる他分野のエンジニアの視線に通ずるものがあるし、わが国における一般教養としての住教育の欠如も垣間見える。しかし見方を変えれば、建築が本来得意とする一品生産とは、このような「モノ」を前にした即興性とも言える技の体系ではなかったか。そしてこれこそ、これからの資源循環社会において、建築が他の産業に向けて示すことのできる範ではないだろうか。
 従来の生産工学の評価軸には乗らないこういった価値をどのように相対化することができるか、それが建築生産の古くて新しいテーマではないかと考えている今日この頃である。