戦後建築技術史への証言:「鉄骨大スパン構造:発展の概要」・・・太田統士

大スパン立体トラスの誕生
 戦後の鉄骨大スパン構造を語る前に、それ以前がどうであったかを顧みると、張間20mもあればいわゆる大スパンと云われた昭和初期、1932年(昭7年)に野澤一郎(巴組鐵工所・現巴コーポレーション創業者)の発明になるダイヤモンドトラスは、画期的なものであった云えるでしょう。と云うのも、当時の発明年鑑の中で昭和6〜7年間の世界的大発明として、三島徳七のMK磁石鋼や古賀逸策の水晶発振子と並んで、30m以上もの大張間が構築できるダイヤモンドトラスも世界的大発明として掲載されています。そもそもこの発明の動機は、当時の某商社が独ユンケル社の組立式格納庫を巴組に造らせ、陸軍に売り込もうとしたことだったと聞いています。ところが折からの国産奨励の時流で果たせなく、それならばと技術導入を交渉してみたが、権利の譲渡料が20万円と云うことで、当時の巴組の年間売上高にも相当し、導入を諦めざるを得なかった。しかしこのアーチ型のトラス構造に興味をもった野澤一郎は諦め切れず、持てる機械工学的知識(東京高等工業機械科卆)を駆使して、ついに多条ネジの性状原理をもとに、三角形構面のトラスをベースにしたダイヤモンドトラスを仕立て上げたのでした。
1936年「新建築」誌の表紙
 1970〜80年代に我が国のスペースフレームは黄金時代を迎えるわけですが、そのような立体トラスが草分け的存在として誕生していたわけです。ついでに云っておきますと昭和一けたの黎明期に造られたものとしては、朝日新聞社の羽田格納庫や帝都電鉄(現井の頭線)の永福町車庫、現存するものとしては東京書籍(株)の王子工場などがあげられます。
戦後の立ち上がり
 戦後は云うまでもなく民需が主体となり、エポックメーキングな構築や開発が続出しています。今では全天候型球技場などで珍しくもない可動屋根を、我が国初のアーチ型移動上屋として三菱重工(株)長崎造船所で造ったのは1955年でしたし、後年の同香焼ドックの巨大移動上屋(スパン106×50×50×2棟) に繋がっています。
 また、1953年には、松下冨士雄(巴コーポレーション)により曲面板理論による鉄骨立体構造「ダイヤモンドシェル」が開発され、それまでのアーチ形から形態を大きく変えるキッカケとなりました。中でも東北電力八戸貯炭嬢上屋(総合工事は大林組)は三連の2曲面シェルで、1960年の最優秀作品と して建築学会賞を受賞しています。
三菱重工業香焼作業所移動上屋(1973)
 発明当初のカマボコ型アーチから次第に形を変えたダイヤモンド構造は、フラットは云うに及ばず多様な連続シェルや切板、多角形、カテナリー等々の空間構築を可能にしてゆきました。当サーツのメンバーである内田祥哉設計(電電公社時代)による五角形プランの電気通信中央学園講堂も多様化のはしりのダヤモンド構造(シェル)でした。

東北電力八戸貯炭場上屋(1959)
  19560年度建築学会賞受賞

 1955年でしたか、読売新聞の正力松太郎が屋根付き球場を構想し、バックミンスター・フーラーを日本に招聘したとき、巴へも来社しています。960面体ドームをわずか8種類の部材で組み立てるフーラードームはお見事というしかありませんが、これ以上の形には発展しようがないし、また構造解析手法が判然としないのが欠点と云えば欠点だったでしょう。それに比べると、ダイヤモンド構造は形状において多彩であり、構造学上の解析方法が確立していたと云えます。
電気通信中央学園(1956)設計 
内田祥哉
 1976年にメキシコで行われた立体構造国際会議で、当時ロンドン大学のマコウスキーが各国の立体構造の開発状況に関して、ブレース式立体構造では日本が世界のリーダーであると総括しています。この国際会議の報告が1978年のフランスの建築雑誌“A”に掲載され、日本のページは全面ダイヤモンド構造で埋め尽くされていて、世界が客観的評価を下してくれたと思ったのを記憶しています。
真駒内アリーナ(1970)
札幌冬季オリンピック用
立体トラスの発展と多様化
 その頃の立体構造市場がどうであったかと云うと、1950年代後半(昭30年代)になって生研トラスやゲビオン構造が開発され、小中学校の屋内運動場に用いられ始めました。しかしいずれも小規模なもので、まだまだスペースフレームの黄金時代を築くと云うにはほど遠いものでした。時代は大阪万博が開かれた1970年前後から、ゼネコンや大手設計事務所がコンピュータを導入し始め、スペースフレームの華が咲き始めたのではないでしょうか。コンピュータ以前は、構造計算と云えば手計算の時代。立体構造の計算ともなると、計算尺を操り更には手回しのタイガー計算機をやけのように回したものでした。今から見ればパソコンにもはるか及ばない当時のコンピューターですが、それでも振動解析や有限要素法などでの応力解析が可能となり、多様な立体トラスがさまざまに造られ始めました。現在では、全天候型タウンを構築する、直径500mにもおよぶ巨大スパン立体構造も夢ではなくなりました。
 一方生産面からのコンピュータ化を見れば、鋼管トラスの工場溶接の自動化が可能となって、鋼管トラスも商品化されてきました。丁度その頃、鋼管・球ジョイントからなる独のメロシステムが輸入され、各界の注目の的となりました。後にこのメロシステムを導入したのが太陽工業で、現在のTMトラスです。これに刺激されたわけではないでしょうが新日鐵がNSトラスを開発し、次いで巴がトモエユニトラスを開発。まさに鋼管によるシステムトラスの時代に突入しました。住友金属工業や川鉄建材が参入したのも確か80年代の後半だったかと記憶しています。要するに鋼球などからなるトラス用機械式継手を用いる鋼管トラスをシステムトラスと位置づけ、1990には太陽工業(TMトラス)・新日本製鐵(NSトラス)・巴コーポレーション(トモエユニトラス)・住友金属工業(SSトラス)・川鉄建材(KTトラス)・大和ハウス工業(DBT構造)でシステムトラス研究会を組織するまでになっています。その後松尾建設(M&TNKシステムトラス)・住軽日軽エンジニアリング(SKトラス)・日綜産業(ニッソーメロシステム)が参入し、実に9社ものシステムトラスが出そろいました。このほか、ゼネコンの開発になるものもあるので、かなりの数になることは確かです。このような社会的発展から、昨年(2002年)には「システムトラスの構造方法」が国土交通省の告示として制定されるまでになりました。
東京辰巳国際水泳場(1993)設計 仙田 満

シングルレイヤーの鋼管トラス
 人件費が安く鋼材が高価であった昔は、アングル材など軽く細かい素材で組み上げるのが主流であったものが、人件費が高騰した今は機械化・システム化することに置換され、今日のシステムトラスの発展に至ったと云えましょう。
あとがき
 短い中で戦後の鉄骨大スパン構造を総花的に云うことは容易でありません。その上ダイヤモンド構造について行数を費やしましたが、決して手前味噌で書いたものでなく、我が国の立体構造の発展経過を語るとすれば、避けて通ることのできない道筋であることにご理解いただきたいと思います。
(文中の人名は敬称を省略させて頂きました)