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- 昭和40年代、通信関係のインフラは日本の経済の高度成長に併せて急速に進み、昭和45年(1970)には従来方法での通信設備拡張は臨界点に達していたようです。そこで更なる発展方策の一つが、伊豆七島や沖縄・先島諸島等の、離島地域における通信事情改善のための無線中継所(常駐者なし)の建設でした。
当時、既に鋼構造システム建築の実績があった我々に(巴コーポレーション)に、電電公社(現NTT)武蔵野電気通信研究所から声が掛かったのは、昭和48年(1973)10月でした。公社側の開発担当は白井調査役、石神調査員他の方々。当方の設計陣は私がチーフであと3名、他に(株)構造計画研究所3名。目鼻の付いた昭和50年3月までの約1年半に、月2回ペースの開発検討会を重ねてきました。今、我々の仲間である松下一郎氏と初めて出会ったのも、丁度この頃のことと記憶しています。
私どもの担当は屋根・外周壁パネルの開発と鉄骨骨組みの製作・建方に関する工法開発が主ですが、結局は建物全般の開発に及びました。この中継所開発の課題は、建設条件の劣悪な離島で最低でも20年くらいはメンテナンスフリーであること、基礎と床スラブのコンクリートは別として、構造体と仕上げ材は100%プレハブであること、それに加えて高断熱・高気密にすることの3点でした。従って、南極の観測小屋とまではゆかなくとも、かなり性能の高いプレハブで、今、手元に資料がないので確かなことは云えませんが、コストは少なくとも一般的な建築の3倍位になっていたかと思います。しかし電気通信網の発展に寄与し、我が国の経済成長に大きく貢献できたものと確信しています。このようなエポックメーキングをなした特異なプレハブ建築に、基本設計段階からトータルシステムの開発まで直接タッチ出来、更に沖縄の伊是名島および三宅島(噴火以来どうなっているか)の2現場まで関わりが持てたことで、深く記憶に残る仕事でした。
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