「住まいの資材部品物語」  金 属 (6)」・・・・中村正實


ステンレス鋼の開発
 ステンレス鋼は鉄に10,5%以上のクロムを添加することによって、表面に厚さ数nm(ナノメートル)のクロム酸化物の皮膜をつくり鋼の腐食を止めるもので、クロム10,5%以上で鋼は殆ど腐食されなくなり、酸化皮膜が破壊されても空気中ですばやく修復することができるのだという。(「金属百科事典」丸善)
 この開発のきっかけとなったのは、古代インドのウーツ鋼(Wootz)にあるとされ、インドの首都ニューデリーの旧市街地デリーにあるクップ・ミナール寺院の大鉄柱が錆びないことに興味を以って19世紀初頭にイギリスで研究が始まったのが端緒となっている。クロム添加の有効性は簡単には見出せなかったというが、1910年にイギリスでマルテンサイト系の鋼が開発され、その前後にイギリスとドイツでオーステナイト系、フェライト系の鋼が開発された。ステンレスの呼称はイギリスで開発されたマルテンサイト系鋼の商品名”Stainless Steel”が普及して一般名詞になったものだという。


 金が歴史に始めて登場するのは紀元前6000〜7000年のシュメールだとされているが、その不滅の輝きゆえに極めて貴重な扱いを受け、金の重量が取引交換価値となり、やがて貨幣となって物々交換の人間社会に革命を起こしたことをまず挙げたい。
 最初に人類が手にした金は自然金の砂金だったが、紀元前4000年には金の溶解・鋳造技術が発達していた。紀元前2500年のイランのウルの王墓からは多数の金製品遺物が出土し、エジプトの西テーベで発見された有名なツタンカーメン王の墓は王家の谷の中では小さいにもかかわらず、よく知られる黄金のマスクや厚さ2@もある黄金の棺など110L以上の金製品が発見されている。エジプトでは太陽を神と崇め、その象徴として金を扱った。この金はエジプトの南に接するスーダン北部のヌピアの漂砂鉱床からの砂金が使われ、採集のために大勢の奴隷が働いていた。
※ 漂砂鉱床:岩石の風化によって母岩から分離し、水の力で川などに集積した鉱床。
鉱石中の他の金属や硫化物は次第に溶けて流され、不活性の酸化物と金が豊富に残る。
 金はすべての火成岩中に低品位で含有され、地殻中には0,005/1,000,000の割合で存在する。しばしば銅や鉛鉱床に銀などとともに含まれ、銅や鉛の精錬の副産物として回収されることがある。金の元素記号はAu、融点は1,063℃、沸点は2660℃であらゆる金属の中で展延性が最も優れている(17/F/oz)。1gの金を髪の毛ほどの太さにすると10mになり、10μmにすると600m以上になる。また厚さ0,2〜0,4μmの金箔にすると50B2以上の大きさになる。(「金属百科事典」丸善)
 紀元前2000年ごろには、鉱石中の銀を塩を使って塩化銀として取り除き、金を取り出す精製法が開発されている。10世紀になると金が水銀に溶け、アマルガムという合金をつくる性質を利用した水銀アマルガム法が開発されて、回収率が向上することになった。この方法は金の粒子に水銀を加えてアマルガムをつくり、不純物を取り除いて蒸留器に入れ、アマルガムを加熱して水銀を蒸発させて金を回収する方法である。蒸発した水銀は再び回収して使うことができる。現在も用いられている方法であるが、水銀による汚染を防ぐ方法が講じられなければならない。
 金の精錬方法は紀元前1000年ごろのペルシャに伝えられたようで、エラム中王朝末期の頃の遺跡からは金製品が出土しており、後にエジプトからインドの西部まで勢力を広げた世界最古の帝国アケメネス朝ペルシャ(紀元前550〜330)では、黄金のリュトンに代表されるような美しい金製品がつくられ、歴史上アケメネスの金として高い評価を得ている。

(黄金のリュトン)

 16世紀から19世紀にかけて、南アメリカ、中央アメリカ、アフリカ、ロシアなどで大鉱床が発見された。中でも南アフリカのウイットウォータスランドの鉱床は世界最大といわれている。ちなみに、日本の佐渡金山の採掘も1601年に江戸幕府によって始められた。
 また、この時期に開発された青化法によって金の回収率はいっそう向上した。青化法は鉱石中の微量の金を青化アルカリ希薄溶液に溶解して、金青化アルカリとし、亜鉛末を添加することで金や銀を沈殿させ、乾燥して精製する方法である。(「金属百科事典」・丸善)ただし、低品位鉱には毒性の強いシアン化ナトリウム(青酸ソーダ)の希釈溶剤が用いられるので、その処理方法が問題になっている。(JOGMEC:カレントトピックス)

(佐渡金山の金鉱石)

 ここまで来たらカリフォルニアのゴールドラッシュについて触れたくなった。その発端は1848年1月24日、ジョン・サッターの経営する農場の使用人ジェームス・W・マーシャルが川で砂金を発見したことに始まる。この情報を知るとヨーロッパや中国から金を目当てに大勢の人が集まり、1849〜1852年の3年間にカリフォルニアの人口は20万人まで膨れ上がったという。文字通り一攫千金をもくろんだ彼らを、特に人口が急増した1949年にちなんでフォーティーナイナーズと呼んでいる。この中にジョン・万次郎もいたというが真偽の程はわからない。余談だが、ジーパンは金を掘りに来た連中のズボンがすぐ破れるのに注目したリーバイ・ストラウス(リーバイスの創始者)が帆布でズボンを作ったことに始まっている。ゴールドラッシュは、その後オーストラリア、カナダ、アラスカ、フィリピンなど世界中で起り、1989年には北海道枝幸町で砂金が発見されてゴールドラッシュとなった。

日本と金
「漢委奴国王」の印
 天明4年(1784)に福岡県志賀島の農夫甚平が「漢委奴国王」と隷書体で凹刻された印を拾った。これが魏・呉・蜀の3朝が覇権を競っていた当時の歴史を記録した三国志にある倭人について記した内容と合致するため大騒ぎとなった。いわゆる「魏史倭人伝」には、以下のように記されている。

(漢委奴国王の印) 

 「景初二年六月、倭の女王、太夫難升米(なしめ)等を遣わし郡に詣り、天子(魏の2代明帝)に詣りて朝貢せんことを求む。太守劉夏、吏将を遣わし、送りて京都にい詣る。その年の十二月、詔書して、「親魏倭王卑弥呼に制詔す……(中略)……今、汝を以って、親魏倭王となし、金印紫授を仮し、装封して帯方の太守に付して仮授せしむ。……」
とあり、同時に錦等の織物、白絹、金八両、5尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹五十斤を使者の難升米に与える。とあった。当時、日本では金を専ら朝鮮半島から輸入していた。金印は高さ2,2B、印面は2,3×2,3cm2、厚さ8mmで、重さは108,7gある。福岡県埋蔵文化財センターの分析結果の発表によると、金95,1%・銀4,5%・銅0,5%の極めて純度の高いものだった。

「大仏建立」
 聖武天皇は政治的問題を抱えた中で即位したが、天候不順による凶作と飢饉、大宰府からはやり始めた天然痘が737年には平城京に蔓延するなど散々な目にあっていた。これを嫌って山城に移った後、天平13年(741)国分寺建立の詔勅を出して世の安定を願ったが、さらに天平15年10月15日、廬舎那仏造立詔勅を出して直ちに鋳造にかからせた。幾多の危機と困難はあったが、8度にわたる鋳継ぎの結果仏体だけで約250t、蓮華台に約130tの銅を使ってほぼ完成したが、渡金のための金がまったく不足していた。このとき(749)陸奥小田郡で砂金が発見され、約38Lの金が献上された。聖武天皇は光明皇后とともに百官を引き連れて東大寺に詣で、日本最初の産金を報告して年号を天平感宝と改めた。それまで金は朝鮮からの輸入に頼っていたのである。
 渡金の方法は金と水銀のアマルガムをつくって大仏に塗り、後にたいまつを燃して加熱し、水銀を飛ばす水銀アマルガム法を用いたといわれる。水銀は融点が−38,87℃、沸点356,58℃という常温で液体の唯一の金属で、古くから顔料に用いられた辰砂(硫化水銀)を空気中で600〜700℃に加熱し、出てくる蒸気を管に導いて水で冷やすと得られる。
 「東大寺要録」によると大仏の渡金に用いられた金は約440L、水銀は約2,5tといわれている。(「金属百科事典」丸善)この鋳造に用いられた銅は最近の調査で山口県のものであることが分かった。
 和銅元年(708)以来貯えてきた国庫の銅はこの鋳造で底を突いてしまった。そのため乾漆の仏像が現れることになった。大仏は建立以来3度の火災に遭ったが、最下段の蓮台の部分は今も当時の金が残っている。