「住まいの資材物語 金 属 (3)」・・・・中村正實

中東・ヨーロッパの鉄器時代
 鉄化合物の鉱石などから初めて鉄を得た時代は余り定かではないが、現在のトルコ共和国にあったヒッタイト(紀元前17〜12世紀)が鉄を作って繁栄したことが知られており、紀元前17世紀の製鉄炉と鉱滓が出土している。首都があったハットウシャのキョアズキョイ遺跡から出土したキズワトナ粘土板文書には「帝国が鉄を占有した」と書かれているという。ヒッタイトは製鉄技術を秘密にしたため、帝国が崩壊した紀元前12世紀までは他の地域にその技術が伝わることは無かった。ヒッタイトは紀元前2000〜 1800年ごろに興ったアーリア人の大移動に伴って北方からアナトリアに侵入した民族で、当時この地域にいた先住民ハッティ「旧約聖書」の「ヘテびと」と呼ばれた種族の名前で本当の姿ははっきりしていない。出土品から見ると紀元前14世紀には原始的な技術の進歩があり、従来の装飾品に代わって武器を生産する下地が整ったという。
 ヒッタイト帝国崩壊後の紀元前1200年〜1000年ごろに現在のイランに鉄が導入され、シアルク墓地からは鉄剣や鉄の容器などが発掘されている。つまりこの頃にはハガネをつくる技術が出来上がっていた。この方法は銅の精錬と同程度の熱源で鉄鉱石を炭とともに熱して鉄を還元し、完全に溶融しない状態で海綿状の鉄を取り出して、何度も熱して叩くことを繰り返しては夾雑物と炭素を追い出してハガネにするという工程だった。
 ちなみに炭素含有量2,0%未満が鋼、2%以上が鋳鉄に分類される。この頃の鉄は金と同じくらい高価だったという。
 鉄の技術はここから各地に拡散しメソポタミア、東地中海地域、エジプトにも紀元前1000年ごろには鉄器が浸透していった。古代オリエントを鉄製の武器で支配したのはヒッタイト衰亡後のアッシリアだといわれ、露骨な軍国主義で大帝国を築き上げた。
 紀元前1050年に最後の銅精錬の窯を閉じてしまったトルコの南、東地中海に浮かぶキプロス島にもやがて新たな希望が芽生えてきた。4%の銅しか含まない銅鉱石に40%もの鉄が含まれており、冶金職人たちはこの鉱滓の中から鉄を取り出すことを始めたのだ。山のように溜まった鉱滓をハンマーで砕くだけで鉄の塊が取り出せたのである。熱処理の過程を省いて使用可能な鉄を取り出せるこの方法は、燃料の不足という足かせから冶金職人を解き放ち、地中海地域の鉄器時代の幕開けに繋がっていった。(「森と文明」)
 ヨーロッパが鉄器時代に入るのは紀元前8世紀ごろ、青銅器時代の末期にボヘミアのあたりに現れたケルト人によってもたらされたというのが定説になっている。ただし「ケルト人」という呼称は紀元前5世紀ごろのギリシャ人がアルプス以北に住む異言語・異文化集団に対して与えたものといわれ、多様な部族がいたことが考えられるので、ケルト人そのものがあまりはっきりしていない。現在の西ヨーロッパの地名からその居住範囲を知ることができるといわれ、西はイベリア半島・ブリティン諸島、北はドナウ川流域、南は北イタリアを含む広範な地域であったという。ウクライナには紀元前800年ごろ、遠隔地の北欧には紀元前500年ごろ鉄器がもたらされた。

中国の鉄器時代
 中国では殷の時代(商王朝=?〜紀元前1027)に隕鉄の製品があったというが、最初の製鉄が行われたのは春秋時代(771〜403)でそれまでに培った青銅器の技術によって高い炉の温度を得ることが可能となり、炭素含有量の多い鉄を溶解させて銑鉄を得ることが出来たという。したがって銑鉄による鋳造品を作ることが始まった。鋳鉄はセメンタイトという物質が縞状に重なり合ったパーライトの組織に混じって黒鉛の結晶体が混在し、耐摩耗性は良いが力をくわえるとヒビが生じやすく脆い。そのため当初は武器に使われること無く、主に農具を中心に鉄器が普及していった。鉄製農具の普及は各地で土地の開拓や治水事業の進展に貢献し、農業の生産量を増やして、余剰な農産物を売買する商業を発展させた。しかし、この銑鉄を武器に適する鍛鉄にする技術が出来るのは戦国時代(紀元前403〜221)だといわれている。
 鉄が完全に武器として定着するのは、始皇帝亡き後の混乱を収拾して漢の皇帝となった劉邦の時代だった。ヒッタイトの製鉄技術は主にインド→東南アジア→中国へと伝えられ紀元110年の後漢では、全国46箇所に官営の製鉄所を設置して鉄を専売したという記録が残されているという。

 

(中国漢代の製鉄炉・河南省第一製鉄炉・「金属百科事典」丸善)


日本の鉄器
 日本へは弥生時代初頭から九州を中心に鉄器が流入してきたようだ。紀元前5世紀ごろの福岡県の石崎曲がり田遺跡からは板状の鉄器が、熊本県の斉藤山遺跡からは当時の日本では行われていない鋳造によって作られた斧が出土しており、春秋戦国時代の中国の燕からもたらされたものだという。
 当時の技術が如何に素晴しいものであったかは、埼玉県行田市の稲荷山古墳から1968年に発掘された「金錯銘鉄剣」によって理解できる。この剣は471年につくられたと考えられているが、剣の両面に金で115文字の象嵌が施されていた。その意味は「辛亥(しんがい)の年の7月 次のことを記す おほひこの8代後のおわけ臣の家系では 代々杖刀人の首(じょうとうじんのおびと)として仕えてきた わかたける大王の斯鬼宮(しきのみや=奈良県桜井市)にもおわけ臣は杖刀人の首として仕え 天下を左治している そこで祖先以来の功績を記念してこの刀をつくった」 ※わかたける大王=雄略天皇
 紀元前2世紀の鳥取県青谷上寺遺跡からも斉藤山遺跡と同じような鋳鉄製の斧が発見されている。その後、弥生時代後期にかけて鉄器の分布が西日本一帯に広まりその量も非常に多くなって、弥生時代中期には鉄の生産が始まっていることが分かるが、その技術は前漢が楽浪郡を設置した紀元前108年ごろ製鉄が始まった朝鮮半島から伝えられた。3世紀半ばから7世紀にわたる古墳時代に製鉄技術はかなりに発達するが、最初に製鉄技術をもたらしたのは帯方郡の漢人、6世紀には任那の漢人、7世紀には百済の漢人が移民して伝えたという。最古の鍛冶炉が発見された2世紀の福岡県赤井手遺跡からは鍛造品が発掘され、同じく福岡県の5世紀後半の潤崎遺跡(うるいざきいせき)からは精錬した鉱滓が発見されている。材料の鉄は朝鮮半島や中国からの鉄_(長方形あるいは撥形の鉄板)の輸入に頼っていた。(「日本古来の製鉄法「たたら」を巡って」室蘭工業大学名誉教授 片山 博)
 ご存知のように日本古来のたたら製鉄は専ら砂鉄を用いたことが特徴で、世界各地で行われていた鉄鉱石からの精錬が始まったのは、安政4年(1857)12月1日、南部藩で大島高任が貫洞瀬左衛門とともに築いた洋式高炉で出銑に成功したのが始まりである。

(稲荷山鉄剣=上と裏面の拡大写真:埼玉県育委員会提供)

 これは享保12年(1772)に公儀御薬草御用の安部友之進が大橋山一帯に磁鉄鉱と黄銅鉱を主とする鉱石が豊富に埋蔵されていることを発見、南部藩盛岡の医師の息子で長崎留学中にヒュゲニンの「大砲鋳造法」に出会って製鉄を志した大島高任と貫洞瀬が安政3年藩に高炉を設けることを願い出て許可されたことによる。磁鉄鉱の採掘を開始したのは出銑に26年先立った文政12年(1892)で、大島らの築いた高炉の技術は明治維新直前まで南部藩直営で維持されて、維新後は明治政府の官営となっている。

(安政時代の南部藩橋野鉱山)