「住まいの資材物語 金 属 (2)」・・・・中村正實

日本の青銅器
 日本に青銅器の技術が伝わったのは弥生時代の紀元前3世紀頃で、大陸からの渡来人によって伝えられた。佐賀県の吉野ヶ里遺跡には青銅鋳造の遺構があり、巴形銅器や有柄銅剣などが出土している。1984年夏に発掘された島根県斐川町の神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡からは、紀元前2〜1世紀に製作された358本の銅剣が発掘され、その大半が中国華北の鉛を含んでいた。これらは九州北部から持ち込まれたのだろうといわれている。
 ところが、神庭荒神谷遺跡から3キロほど離れた加茂町の加茂岩倉遺跡からは1996年秋に39個の銅鐸が発見され、その一部は近畿の銅鐸と同じ鋳型から作られたものと見られており、こちらは近畿から持ち込まれたものと考えられている。この頃の出雲に強大な権力を持ったものがいたのであろう。

(加茂荒神谷遺跡の銅鐸)

 弥生時代初期には日本で銅を採掘した遺跡が見つからないこと、当時の銅製品に含まれる鉛が分析の結果中国のものであることが判明していることなどから、鉄器時代に入って不要になった銅製品を中国や朝鮮から輸入し、溶解して再利用されていたと考えられている。
 日本で最初に銅が採掘された記録は文武2年(698)因幡、周防の2国だという記録があるが、歴史の表舞台に出るのは、慶雲5年1月1日秩父市黒谷で純度の高い自然銅(和銅=にきあかがね)が発見され献上されたことによって、「和銅」と改元された708年で、唐に倣って貨幣制度を整えるため5月には銀銭が発行されていたが、7月に鋳造が始まった銅銭(和同開珎)が8月に発行されたことによる。この後古い銀銭の使用は禁止されている。

(秩父黒谷の自然銅の露天掘り跡)

 和同開珎は唐の開元通宝を模したもので、律令で定めた1文として通用した。当時で米2s、成人1日分の労働対価に値したという。これ以降963年(応和3年)にかけて皇朝十二銭と呼ばれる銅銭が鋳造された。順に708年(和銅元年)和同開珎・760年(天平宝字4年)万年通宝・765年(天平神護元年)神功開宝・818年(延暦15年)隆平永宝・818年(弘仁9年)富寿神宝・835年(承和2年)承和昌宝・848年(嘉祥元年)長年大宝・859年(貞観元年)饒益神宝・870年(貞観12年)貞観永宝・890年(寛平2年)寛平大宝・907年(延喜7年)延喜通宝・958年(天徳2年)乾元大宝である。
 これらの発行は通貨制度を整えるという表向きの理由と、平城京遷都に係る莫大な費用を、銅地金の価値と貨幣としての通貨単位の差で賄うという意味もあったといわれている。

黄  銅
 青銅の歴史に比べて亜鉛と銅の合金である黄銅の歴史は遥かに新しく、何時ごろ生まれたのかも余り定かでないが、少なくとも紀元前4000年ごろから用いられていたといわれている。ローマに征服される前のダキア人(ルーマニア)は紀元前から亜鉛の精錬技術に精通していたといい、それ以前に金属亜鉛を手にした民族は知られていない。12世紀からはインドで亜鉛の精錬が行われ、中国では古代から黄銅が鍮石と呼ばれて珍重されていたが、亜鉛の精錬が始まったのは16世紀である。ヨーロッパには1737年に中国から精錬技術が伝えられたという。
 ところが、正倉院御物の中には鍮石と呼ばれる材料を使ったものが記録されている。恐らくその名前から南倉28号の「金銅合子」のことで、中国から舶載されたものであろう。また、昭和62年に発掘調査が行われた大阪市羽曳野市の野中寺遺跡から出土した板状金属が銅71,80%・亜鉛21,03%の黄銅であることがわかった。この頃すでに日本に黄銅製品があったことは間違いない。青銅に比べて歴史が浅いのは、合金として使う錫の融点が419,5℃、沸点が907℃と低く、開放式の還元窯で木炭を使って鉱石を還元すると、亜鉛が昇華して、煙突の先端で空気中の酸素によって酸化物になってしまうのだそうだ。そこでこの煙を冷却して初めて亜鉛を得るのだという。この抽出の難しさが亜鉛の普及を遅らせたということが出来る。
 黄銅は、亜鉛の含有量によって丹銅(亜鉛5〜20%未満)・七三黄銅(亜鉛30%)・六四黄銅(亜鉛40%)と呼ばれ、丹銅はその名のとおり赤味が強く軟らかい。亜鉛の含有量の多い六四黄銅は金色に近く硬いという特徴がある。黄銅(真鍮)が歴史上に華々しく登場するのは大航海時代(15世紀中頃〜17世紀中頃)のことで、海水に対する耐食性に優れているため船舶用の金物としてその地位を固め、やがて住宅の建具や家具の金物としても発達していった。また、展延性が良いためこの頃からバルブの無いトランペットなどの管楽器に用いられ、ブラスはいまや金管楽器の代名詞になった。実際、真鍮が管楽器に用いられるようになったことでバルブ装置が発明され、管楽器は急速に進歩している。これらの楽器は真鍮の板を叩き延ばして整形し、真鍮蝋で溶接して作られている。イギリスでは1702年に真鍮製品の製造会社が設立され、1775年以降は圧延による真鍮線と板材が製造されていた。さらに、18世紀から19世紀に掛けて興った産業革命では機械の部品として大量に用いられるようになって現在に至っている。
 日本で真鍮が用いられるようになったのは江戸時代中期以降といわれ、明和年間(1764〜1772)には寛永通宝の真鍮四文銭がつくられている。真鍮の製造のため1600年代にはオランダから亜鉛が輸入され真鍮製造の技術も伝えられたことが、オランダの貿易文書や国内文書の検討の結果分かっている。正徳年間(1711〜1716)の「奉行所引継」正徳年間大阪市中各種営業表」の「職工之部」には「真鍮吹屋 四人」と記されているという。(「近世の金属遺物」原祐一)
 東京大学本郷構内の病棟建設地にあって、明暦3年(1657年)の明暦の大火(振袖火事)で消失したため大聖寺藩邸となった加賀藩下屋敷跡からは「正徳」と「天下一」の刻印がある真鍮の分銅が発見されており、1669年(寛文10年)〜1682年の間につくられたものと考えられている。同遺跡からは真鍮製のキセルの雁首や吸い口も出土しているから、この頃には真鍮製品がかなり出回っていたことが推察される。(江戸遺跡研究会会報No72・「近世の真鍮製造と亜鉛輸入」原祐一・小泉好延・伊藤博之)

亜 鉛
 ここで流れとして、現在は欠かせないものになっている亜鉛について簡単に触れるのが良いと思う。人体に有害な亜鉛ではあるが、古くから白色の顔料として絵の具に用いられ、建築に関しては鋼材の腐食を防ぐためのメッキとして、鋼板や鋼管に多用されているのはご存知の通り。だが、特筆されなければならないのは電気の実用化に貢献したことだろう。1600年にエリザベス王朝お抱えの医師ウイリアム・ギルバートが、電気と磁気に関する基本的な考えをまとめてから100年経って、オットー・ゲーリックが感応式発電機をつくった。これをライプチイッヒのウインクラーが1744年に改良して放電火花を送ることに成功すると同時に、その速さが弾丸よりも早く、絶縁された導体を用いれば何処までも送れるだろうと述べて送電という考え方を知らしめた。
 さらに1800年になってイタリアの中学校の物理学教師アレキサンドル・ボルタが、銅と亜鉛の板を湿った布を挟んで積み重ねると、その両端から電気が発生し、これを電線でつなぐとそこに電流が生ずることを発見した。これが現在の化学電池の原型となったボルタ電池である。これが乾電池となるまでにはさらに二つの段階があった、始めはフランス人のルクランシュが塩化アンモニウム溶液を用いたルクランシュ電池を発明した。ところが溶液がこぼれて不便だったため、1888年ドイツ人ガスナーがこれを改良して液洩れのしない電池「乾電池」を発明した。
 ところがこれに3年先駆けて新潟県長岡市に生まれた屋井先蔵という日本人が乾電池を発明して1892年のシカゴ万国博覧会に出品しているというから驚きである。亜鉛はこれ以降さまざまに改良され、現在はボタン型の空気亜鉛電池として補聴器などに用いられている。一方、酸化亜鉛はいまやブームとなった光触媒の材料として、タイル・衛生陶器・塗料などに多用されている。光触媒となる材料はこのほかに銀や酸化チタンなどがある。


 人類が最初に手にした鉄は隕鉄だったようだ。隕鉄は超新星の爆発によって宇宙に飛散した元素が、短時間に核融合した結果生成されたものと推定され、数パーセントのニッケルが含まれているので判別できる。(「金属の百科事典」丸善株式会社)別に山火事などのあとから偶然鉄を発見したという説もあるが、エジプトのギーザにあるピラミッドから発見された首飾り(紀元前2750年)と、トルコのアラジャホユク遺跡から発掘された鉄ピンと鉄の飾り板(紀元前2500〜2200)は隕鉄からつくられているという。