「住宅資材物語 金 属 (1)」・・・・中村正實

 人間が金属とめぐり合ったことは、道具を発達させ機械を作って生産性を向上させ、貨幣を作ることによって商業を飛躍的に発達させたという2点で極めて大きな出来事だった。人類が金属を使うことができたのは偏に火の利用を知っていたことに掛かっている。金属の歴史を紐解く順序としてデンマークのクリスチャン・トムセンが提唱した先史時代の時代区分にしたがって銅から鉄へ、そして貨幣になった金銀へと話を進めることにしたいと思う。


 人類が初めて金属に出会ったのは紀元前10,000年ごろだといわれているが、トルコ東部高原地帯の南北160km東西350kmに及んで、約2000年もの間人類が定住したチャヌ・テペシ遺跡(紀元前8,200〜6,000年)から、孔雀石(マラカイト)などの加工品とともに100点以上の自然銅を加工した製品が出土している。ここから北に約20kmのところに古代から知られたエルガニ銅鉱山があり、ここから自然銅を得たのであろうといわれる。なお、孔雀石そのものが藍銅鉱と呼ばれ銅を含む鉱石である。出土した銅の加工品はビーズや棒状のもので、自然胴は焼きなませば軟らかくなるがそのままでは硬く、叩いて加工することは難しいので鋳造によってつくられたという。
 当時このあたりはオークとピスタチオの森に囲まれて早くから小麦や大麦を栽培しており、黒曜石の石器が使われていたが、少し遅れて羊や山羊も飼育するようになった。また、紀元前7000年ごろの鎌の柄に石灰で固めた麻布の断片が発見されているから、すでに織物が織られていたことが分かる。後期には建物に漆喰が用いられており、この集落の衰退は、大量の石灰製造のため燃料に使用した森林の破壊によってエネルギーを失ったためではないかと考えられている。銅を鋳造するには融点の1,083℃を超える高温を得ることが出来なければならないから、すでに炉の温度をこの程度まで高くすることは出来たと考えられる。しかしその後、銅を自由に加工できるようになるまでには更に3,000年もの時間を要した。
 人類は土器を焼くために窯を作り、高温で焼成した土器が丈夫なことを知って、次第に火力を上げる技術を身につけた。燃料は薪から炭に変わり、火力を上げる技術は吹き筒からフイゴを使うようになった。古くは皿フイゴ・皮フイゴが知られているが、何時どのようにしてフイゴが作られたかは明らかでない。銅の精錬は紀元前4,000〜3,000年の間に地中海沿岸と東南アジアでそれぞれ独自に発達したと考えられている。
 金属はイオン化傾向が小さいほど金属以外の元素と反応しにくいため、採取しやすいが、イオン化傾向の小さい順に並べると、金<銅<鉛<錫<鉄となり、ほぼ人類が金属を手にした順序の通りになっている。最も精錬しやすかったのは銅の炭酸化合物で、鉱石の炭酸銅は1200℃を越える高温の炉の中で分解して酸化銅となり、炉の中で一酸化炭素とであって還元されて銅になり溶融して炉の底にたまる。この還元には燃焼中の炉の中の二酸化炭素の1/500の一酸化炭素があればよいので、容易に銅が得られたと考えられている。炭酸銅とともに採掘される硫化銅は、一度800℃で焼いて硫黄分を追い出してから炭酸銅と同じようにして銅を得ることが出来る。この銅に約10%の錫を加えて合金にすると青銅になる。銅の精錬の過程で他の金属との合金になることもあったと考えられるから、この発見はそう難しくは無かったであろう。
 メソポタミアでは紀元前4000年ごろから銅の鋳造が発達し、武器のほかに工具・容器・装身具などが作られている。エジプトでも同じ頃から銅の鋳造が始まっているが、当時は純銅製品が多く、遅れて青銅器が出現した。中王国時代(紀元前2135〜1800)にはシナイ銅山が開発されている。
 ギリシャを中心とするミュケーネ世界は、紀元前1500年ごろはその大半を森林に覆われ、後期青銅器時代の始め頃メッセニアの主都ピュロス近くまで松に囲まれていたことが花粉分析の結果判明しているという。当時メッセニア地方で青銅の生産に従事していた鍛冶職人は少なくとも400人に及び、年間数万トンの青銅が生産されていたと推定されている。
 メソポタミアの古代国家バビロンやアフリカのマリが繁栄して、木材資源を使い果たした紀元前2000年ごろ、樫や松、レバノン杉の豊富な資源を持つギリシャの南に浮かぶクレタ島がその資源のゆえに突然脚光を浴びてきた。木材交易で栄えたこの島からはクノッソスを中心にして青銅をつくる冶金用の窯や陶器の窯跡が数多く発掘され、豊かなミノア文明を育んで「ミノア象形文字」を生んでいる。しかし、紀元前1500年を過ぎると次第に木材資源が不足して、船を修理する木材にも事欠くようになり国力が低下してきた。ミュケーネに豊富な森林資源を貯えていたエジプトはこの機に乗じて海上権を制覇し、クレタ島をミュケーネの影響下においてしまった。クノッソスでは燃料が乏しくなったことから青銅が銅より融点が低いことに着目して、青銅器の再利用が始まっている。鋳造のための燃料は薪に代わって低木の根でも作れる炭に代わって行った。住居では炉に代り炭を使って持ち運びができる火鉢も登場している。
 紀元前3000年ごろのキプロス島は銅資源が豊富でその支配はエジプト→アッシリア→フェニキア→ギリシャ→ローマ→と移り、ローマへの銅の供給は殆どがキプロス島からだった。銅をcopperと呼ぶのはキプロス島の鉱石を意味するキュープラム(cuprum)からきている。
 豊かな森があったキプロス島では、海外市場に向けて銅の精錬にある限りの力を注いで紀元前13世紀には精錬と溶融の量は最高を記録し、採鉱所には鉱滓の山が築かれた。銅の鋳塊1個を生産するのには6tの木炭が要り、6tの木炭を作るには森林面積1,6haに相当する120本の松が必要だった。銅精錬で毎年6〜8km2の森が奪われ面積4700km2の小さな島はまもなく燃料の不足が表面化した。そこでキプロス島の冶金職人は長い時間をかけて、原鉱石を野晒しにして不純物を浸出しそのまま精錬する湿式冶金の方法を開発した。
 この方法は最初の焙焼の工程を省くことが出来、不純物の除去に必要な精錬の回数も減らすことが出来て燃料を1/3まで減らすことが可能になった。(「森と文明」ジョン・バーリン著・晶文社)
 ヨーロッパでは紀元前2600年ごろのブリティン島に大陸から渡って来たビーカー人によってビーカー式土器と青銅器がつくられ、武器や工具、日用品などに使われていた。
 東南アジアのタイでは紀元前3,500年ごろのバンチェン遺跡から青銅器が発見されており、インドではモヘンジョダロやハラッパの遺跡(紀元前3000〜2000年)から青銅器が発掘されている。中国では紀元前1600年〜1046年に栄えた殷の時代に青銅器文化が栄え、朝鮮では紀元前1000年ごろに青銅器時代に入った。朝鮮半島で青銅器が発達するのは紀元前1000年ごろからで細形銅剣や多紐細文鏡がつくられている。
 また青銅は鋳造性が良いため、特筆できることとしてグーテンベルグの印刷機よりはるかに早い時期の13世紀に、公文書印刷のため朝鮮では青銅で世界最初の活字がつくられている。

中国の青銅器時代
 古代中国では殷に先立つ夏の時代(紀元前21世紀)にすでに青銅器が製作されて、
 古書に「夏の禹が九鼎を鋳て天下の九つの州を象徴した」という伝説が記されているそうで、礼器や兵器が鋳造されていたが、本格的には殷の時代(紀元前1600〜1046年)から春秋・戦国時代にかけて普及していった。兵器や車馬の道具、農具、工具から食器、酒器、水器や楽器まであり、印璽や貨幣も出土して、農業・工業・商業などすべての面で旺盛な活動が行われていたことが分かる。河南・安陽の殷墟にある鋳銅工房の遺跡は面積が10,000m2もあり、西周早期の河南・洛陽の鋳造銅工房の遺跡は90,000〜120,000m2もあるといわれている。
 初期は「合鋳法」と呼ばれる鋳型を使った鋳造法で、粘土を使った「泥範」や陶器の「陶範」を用いた。「陶範」ではまず模型を作って装飾文様をいれ、それに粘土を被せて型を取り、高温で焼成して鋳型を作って銅を流し込んで作った。
 「泥範」では複数の鋳型を用いて大型の銅器を作る「分鋳法」があり、大きなものでは70〜80個の坩堝でいっせいに銅を溶かして鋳造したといわれ、200〜300人が緊密な連携を取らなければつくれないという。河南省安陽市の侯家荘から出土した「分鋳法」による「司母戉鼎」は高さ133cm、重さ875kgもある。
 春秋時代にはロストワックス「失蝋法」の手法も出来上がって、蝋・松脂・油脂等を固めて型を作り、これに馬糞を混ぜた泥や石膏を厚く塗って日陰干した後、熱を加えて焼成すると蝋が溶けて半陶質の空洞ができる。この中に銅を流し込んで鋳造する方法があった。
 殷が黄河中流域を支配していた頃、長江上流域の蜀には独特の青銅器文化が栄えていた。長江の支流が何本も通る肥沃な地で天然資源に恵まれ、養蚕の開祖といわれる蚕叢によって開国されたもので、養蚕は重要な産業の一つだった。四川省広漢県三成堆村から1931年に発見された有名な三成堆遺跡の3km2の古城城跡からは、1986年に玉石器や陶器、象牙製品とともに大量の金製品や青銅器が出土している。目の飛び出した巨大な仮面、高さ2,6mにも及ぶ奇怪な立身像や3,6mもある樹木など当時の信仰に基づくと思われる独特のもので、他地域からの出土品とは明らかな違いがある。(次号へつづく)