「住宅資材物語」  塗 料 (1)・・・・・中村正實

 塗料の起源をどのように見るかは非常に難しい。その始まりはいわば絵の具だったといえる。フランス西部ドルトーニュ県モンティニヤック近郊のラスコーの洞窟、スペイン北部のカンタブリア山脈の北側傾斜にあるアルタミラの洞窟は、いずれも後期旧石器時代(第4氷河期)の洞窟だといわれているが、どちらも炭の粉やマンガン(黒)、黄土(黄)、酸化鉄(赤茶)、白亜土(白)など鉱物質の粉末を用いて彩色された見事な壁画が描かれている。        

 これらの描かれた時代は紀元前15,000年ごろだとされているが、鍾乳洞のぬれた壁面が生乾きの漆喰の役割をしたので、いわばフレスコ画の始まりだったということができる。また、エジプトにも乾いた漆喰壁にカゼイン(大豆蛋白)などをバインダーに使ってアズライト(藍銅鉱)などを使ったフレスコ画が発見されている。フレスコ画は、このように乾燥していない化粧漆喰(Stucco)に顔料を水で溶いて塗る湿式画法(ブオン・フレスコ)と、乾燥している漆喰壁を水で濡らして、顔料に水で石灰やカゼインを溶いて塗る乾式工法(ア・セッコ)がある。

 また、紀元前79年8月24日にベスビオス火山の噴火で一夜にして埋まってしまったイタリアのポンペイでは、現代の技法に劣らないフレスコ画が大量に発見されている。つまり、この頃には交易によってさまざまな顔料の入手が可能となり、フレスコ画の技法が完全に普及していた。13世紀以降はジョット、ピエロ・デラ・フランチェスカ、ミケランジェロ、ラファエロなど著名な画家が教会などに沢山のフレスコ画を残している。今でもイタリア・ベネチアでは、高級家具に石膏をウサギの骨からとれる膠に溶いて塗るフレスコの技法が、普及品の家具にはテンペラ絵の具が使われている。

 水に溶けない顔料を絵の具として使うには始めのうち、石膏に塗るフレスコ画の技法と、顔料の微粉末を膠に溶いて用いる日本画の岩絵の具の手法しかなかった。さまざまな地方で4世紀から8世紀にかけての壁画が発見され、最近世界遺産に登録された中国吉林省・集安の高句麗壁画古墳群や、日本の高松塚古墳およびキトラ古墳(いずれも8世紀始め)の壁画も顔料を用いて描かれている。

  

アルタミラの壁画           キトラ古墳の壁画

 日本に岩絵の具を伝えたのは、推古天皇の18年(610)に来日した高句麗の僧曇徴だった。詳細は分からないが、マラカイト(孔雀石=緑青)、辰砂=朱、黄土=黄、胡粉=白 などが含まれていたものと思う。奈良の枕詞「青丹よし」の青丹は緑青の古名である。

 下って、桃山時代に琳派によって描かれた障屏画にはアズライト(藍銅鉱=群青)が金箔とともに豊富に使われている。岩絵の具は油絵の具のように白を加えて色を明るくすることや、水彩絵の具のように水で薄めることができないので、濃淡は光の反射率を利用して顔料の粒子の大きさで行う。篩に掛からないほど細かな粒子なので、細かくすり潰した粒子を水で処理する水簸という方法で、粗い粒子が流れて後に残った粒子を薄い盆の上で何度も繰り返しながら細かくしてゆく。粒の大きい粒子ほど光を反射して色が濃く現れ、細かくなるにしたがって色が薄くなる。始めはこの作業を画人が自分の手で行っていた。

 フレスコ画と同じ顔料を卵黄のレシチン(Lecithin=燐脂質)と混合して酸化重合させるテンペラ絵の具の使い方もある。ボッティチェリの「ビーナスの誕生」はこのテンペラ画である。現在では酸化剤として酢を使うが、もともとは無花果の汁などを加えて使っていた。テンペラはロシアで盛んに用いられ、14世紀以降たくさんの寺院を飾ったイコンは金箔を貼り卵黄ペーストで顔料を練って定着させたテンペラ画である。

 ところで、紀元前2000年ごろのエジプトには顔料を乾性油で溶いたものもあったというから、すでにこのころ油絵の具の原型はできていたことになる。油絵の具は亜麻仁油、芥子油、胡桃油、紅花油と地中に浸み込んだ樹液が化石化したダンマルを顔料と練り合わせたもので、13〜15世紀に製法が確立し、ルネッサンス期の多くの画家たちが油彩の傑作を残している。ダヴィンチのモナリザもその一つである。この油彩技法はオランダのファン・エイク兄弟が確立したといわれている。ところが正倉院御物の玉虫厨子の密陀絵は、漆でなく顔料を油で溶いたものではないかという(「正倉院の匠たち」青山茂編・草思社:北村大通 談)。北村大通が実験したところ、用いられている顔料を漆で溶くと本来の色に発色しないこと、紫外線を当てると油特有の蛍光を発することからの推論だ。だとすれば7〜8世紀の東洋には既に油絵の具があったことになる。

 水に溶ける染料は粘度を調整する材料を加えることで簡単に水彩絵の具になったから、ルネッサンス期にはフレスコ、テンペラ、油絵の具と水彩絵の具が同時に用いられていた。水彩絵の具はルーベンス(1557〜1851)、レンブラント(1606〜1669)にも愛用され18世紀の終りにはターナー(1775〜1859)などの著名な水彩画家を生んでいる。

 日本で油絵が画かれたのは江戸時代で、幕府の老中退任直後の藩主松平定信に才能を認められて江戸に出た須賀川の染物屋の息子が、西洋画や銅版画を学んで亜欧堂善一と名乗り、自分で唐辛子や胡麻油を煮込んだもので顔料を練り合わせて絵の具を作って描いたのが最初だという。

近代塗料への歩み

 16世紀の終わりごろインドからフランスに新しい塗料が伝えられた。熱帯植物に寄生するラックカイガラムシの分泌物をアルコールで溶いたシェラックワニスである。この塗料はやがて家具や楽器に用いられるフランス式木工塗装(フレンチポリシュ)として完成した。塗装には、二日間ほどアルコールに漬けて溶いたシェラックを用い、木綿か羊毛をゴルフボールほどの大きさに硬く丸め20×20センチ程度の柔らかな木綿で包んだ「てるてる坊主」のようなパッドの頭の部分にシェラックをつけ、バージンオリーブなどのオイルをほんの少したらしてパッドのすべりを保ちながら、1工程で10回ほどの円運動を行って極めて薄い塗膜を塗り重ねる。最後に塗装で用いた油分を除去し光沢を出すという工程を踏む。これで仮にギターを1本塗るには10〜14日も掛かり細心の注意と熟練が必要な塗装法である。  ストラディバリウスは、塗膜がきわめて薄く弦の振動を楽器によく伝える透明なこの塗料があって始めて、あの美しい響きを生んだといえる。ボディーを構成する木材はボラックスという薬剤を加えた水で楓の板を煮沸し、薬剤に反応して硬くなった板をヴァイオリンの複雑な形に合わせて2,5mm程度の厚さに削ってから膠で接着して組み立て、染料のアカネで着色した上にシェラックワニスをかけて独特の色調のヴァイオリンをつくった。今でもマニアを対象にした楽器には、音の立ち上がりがよい、甘くて枯れたサウンドを醸し出すという理由でシェラック塗装が施されている。耐候性はよくないので容器に収納して出来るだけ紫外線を避けなければならない。

 ところで7世紀ごろの世界の貿易ルートはどうなっていたのだろうか。正倉院には各国から集めた薬物が沢山あるというが、この中に紫鉱という名でシェラックがあるのだそうだ(「正倉院の匠たち」)、塗料として定着しなかったのは、塗料としての用途を知らされていなかったか、使いやすい溶剤がなかったからだろう。

 18世紀にはさまざまな顔料が発見され、19世紀に入ると塗料の製造・応用技術も進歩して顔料を油で練った調合ペイントが生まれた。また、ニトロセルロースラッカーが誕生してくる。乾燥がきわめて早いこの塗料は、20世紀に入るとアメリカの自動車産業の台頭で急速に需要を伸ばし、スプレー塗装の技術を生むことになった。セルロースラッカーは現在でも自動車の補修用塗料として使われる一方、塗膜が硬い合成樹脂塗料に比べて音の立ち上がりがよいという理由で、マニア向け弦楽器の塗装にも用いられている。また、女性の指先を彩るネイルエナメルもニトロセルロースラッカーである。

 これらの塗料は17〜18世紀の長崎貿易で日本にも紹介されていたが、本格的導入は海軍が横須賀造船所をつくった慶応2年(1866)を嚆矢とする。以降、塗料の研究が進められ、明治初年には国産の塗料が完成したといわれている。第2次世界大戦中には航空機用の塗料が研究され、ベンジンセルロース系の塗料が開発されている。終戦後日本経済が立ち直った昭和30年代までは、メラミン・ポリエステル・エポキシ・アクリルなどの合成樹脂塗料の開花期となり、静電塗装・粉体塗装などの新しい技術が生まれた。