「住宅資材物語 ガラス(2)」 ・・・・・ 中村正實

 1200年ごろ東ローマ帝国が独立すると、ガラスをつくっていた工人のほとんどはイタリアのベニス共和国に移った。共和国では火災を防ぐためという理由でムラノ島に住まわされ、がっちりと技術の流失を防いだ上で様々な工芸品を作った。これがベネチャン・グラスの始まりである。共和国が国を挙げての事業としたことで、1268年にはガラス組合も結成され、13~15世紀にかけてベネチアのガラス工芸は飛躍的に発展して、エナメル彩画や2枚のガラスの間に薄い金を溶着するゴールド・サンドイッチのガラス容器も大量に作られた。さらに15世紀の中ごろアンゾロ・バビエールが純度の高い透明ガラス「クリスタリーノ」を発明したことでベネチアは一時ヨーロッパのガラス工芸を独占した。また、1507年ダル・ガロ兄弟が、水銀アマルガム法でガラスの裏に水銀を引いた鏡を発明して、16世紀のベネチアガラス工業は全盛期を迎えた。
 1682年に完成したベルサイユ宮殿の鏡の間に用いた鏡は、ベネチアのガラス職人を12人も引き抜いて作ったという逸話が残っている。このときの工場を、ルイ14世はパリの北北東約100キロのサン・ゴバンにつくったが、これが板ガラスと鏡の生産で確固たる地盤を築いた現在のフランス国営サン・ゴバン社の前身となった。こうしてベネチアが独占していたガラスの製法は次第にアルプス以北のヨーロッパ全域に伝わっていった。
 一方13世紀にベネチアと交流のあったボヘミアでは、イタリアから天然ソーダ灰を輸入して、ガラス器や教会のステンドグラスなどを小さな工場で作っていた。ドイツ、オーストリア、チェコなどでは燃料に薪を使い木の灰をガラスの原料にしていたことと、火災防止の意味もあってガラス工場は森の中にあった。そのため「森のガラス」と呼ばれていたが、1685年ごろ、ボヘミアでブナの灰を原料に添加して透明度の高いカリ石灰ガラスを作ることに成功した。こうしてボヘミア・ガラスの品質はベネチアを凌ぐほどになり、新たにガラス生産地としての地盤を固めた。
 日本で発見された最古のガラスは、弥生時代の遺跡から発見された勾玉、管珠、壁、釧(腕輪)など中国から渡来したものだった。日本でもガラスをつくる試みはされていて、正倉院文書「造仏所作物帳」(断簡)続修第三十四巻にはガラスの製法が記されていた。主に仏教用具と珠類を作っていたが、熱や衝撃に強いガラスをつくる材料に恵まれずガラスの技術は発展しなかった。
 初めてヨーロッパのガラスが日本に紹介されたのは、1549年に来日したポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが持ってきた鏡や遠眼鏡だったことはよく知られている。
 改めてガラスの製法が日本に伝えられたのは1570年の長崎で、備前国大村藩主の大村理博により、ポルトガル人がガラス工場を建て、オランダ人が製法を伝えた。長崎には寛永年間(1624~1643)に中国からもガラスの製法が伝えられて、1712年ごろからは南蛮式と中国式の製法をミックスしたガラス細工が作られていたという。この頃のガラスは中国の乾隆ガラスと同じ鉛ガラスだった。

建築材料としてのガラス
 古代ローマでは、窓に半透明の雲母やオニックスなどの石材、あるいはアラバスター(雪花石膏)が用いられたというが、79年に噴火で埋没したポンペイの中央広場に接するフォロー街の「広場浴場」の円天井の窓枠に230mm×540mmのガラスが使われていた痕跡があるといわれ、この頃には窓にもガラスが使われていたことが推測できる。
 吹きガラスの技法がBC20~30年ごろシリアで開発されたことは前回に触れたが、7世紀初頭にシリアで、吹きガラスによるクラウン法(人工吹球法)と呼ぶ板ガラスの製法が開発された。瓶のように膨らましたガラスの底が熱いうちに、先が平らな棹を付け、始めの吹棹の口から切り離して、ぐるぐると回転させながら遠心力で板状に拡げて作る方法だった。そのため中心部に丸い棹の跡が残っている。このガラスはいまもイタリアのムラノガラス博物館の窓に残されている。クラウン法で作ったガラスの凹凸のある表面を磨いて平滑にする磨板製法は、13世紀ごろからベネチアで企業化され現在に至るまで活用されている。
 ガラス製法の近代化の助走は18世紀後半から始まった。フランスの化学者N・ルブランがソーダ灰を大量生産できるルブラン法を開発して、従来の木の灰や海藻灰に代わってガラスのアルカリ原料としてソーダが用いられるようになった。さらにドイツのシーメンス兄弟によって、燃料に石炭を用いた蓄熱式加熱法によるシーメンス炉が開発されガラスの溶融技術が飛躍的に進歩した。板ガラスの製法にはクラウン法に代わってシリンダーブロウ法(手吹円筒法)が開発された。細長い瓶の状態に吹いたガラスの首と底を切り離して縦に割って開く方法で、板ガラスをつくる労力はかなり軽減された。クリスタル・パレスに30万枚も用いられたガラスはこの方法を改良したものだというが、おそらくポンプで圧搾空気を送って大きな瓶状に吹いたものだろう。その限界の寸法が120mm×25mmだったものと考えられる。クラシックガラスと呼ばれる板ガラスに筋状の模様があるのは円筒を吹く際にできた空気の流れによるものである。
 1902年にはアメリカ人ジョン・Hラーバスによって機械吹円筒法が開発され、寸法の大きな板ガラスの量産が可能になった。1913年にはベルギー人エミール・フルコールによってフルコール法と呼ばれる垂直板引法が完成し、1913年にはアメリカ人I・Wコルバーンによって水平板引法が開発されて板ガラスの供給量は急速に伸びた。さらに1992年にはアメリカのフォード社によって連続ロール法が開発され、これが現在も世界各地で採用されているロールアウト法に発展している。戦前や戦後の初期の建物に採用されたガラスに歪が目立つのはこの製法のためである。この問題は1952年にイギリスのピルキントン社が開発したフロート法によって大幅に改善された。
 フロート法は錫とガラスの比重の違いに着目したもので、炉から取り出した1600℃にも熱したガラスを、溶融した錫を張ったフロートバスに導き、水平な板状にしながら徐々に冷却する方法で、1600℃にも加熱するのは板ガラスに気泡が残らないようにするためである。
 日本の板ガラス製造の試みは明治9年(1876)日本政府の工部省が太政大臣三条実朝の家臣村井三四郎と丹羽正康に興業社をつくらせたことに始まっている。この会社が不振に陥ったのを政府が買収して官営の品川ガラス製造所を設立した。硝子という漢字はこのとき板ガラスの気泡防止剤として硝石を入れたことに始まっている。しかしこれも成功せず明治40年(1907)岩崎俊弥によって旭硝子が設立され、大正7年(1918)には住友総本店によって日米板ガラス(日本板硝子の前身)が設立された。
 本格的量産が始まったのは、日米板ガラスが1920年に北九州の若松に建設した工場にアメリカからコルバーン法(水平板引法)の特許を買い入れて設備をつくり、旭硝子が大正3年に北九州の牧山工場にラーバス式機械吹円筒法を導入したのに続いて、昭和3年(1928)尼崎工場の設備を更新してフルコール法(垂直板引法)で生産を開始するまで待たなければならなかった。明治27年東京根岸の旧前田候下屋敷の御家人用長屋に住んで子規庵を構えた正岡子規は、部屋の外に弟子たちがガラス障子を建ててくれて大変暖かいと喜んだというが、その費用が驚くほど高かったのだろう、晩年に著した「墨汁一滴」の3月12日、不平十か条で「板ガラスの日本で出来ぬ不平」を述べている。

ダイアモンド彫り蓋付きゴブレット=16Cベネチア
サントリー美術館収蔵

(白地紅被花鳥人物文=18C乾隆ガラス)
サントリー美術館収蔵 

 クラウン法による板ガラスの製造

フロート板ガラスの製造工程