「我が思い出の町“アカシアの大連”」・・・・松田浩成

 清岡卓行が著した“アカシアの大連”を紐解くまでもなく戦前の大連は初夏には街路樹にアカシアの花が咲き乱れ、都市計画は日本人が夢見た“理想郷”として整備され、活気に溢れた都市でありました。私は瀋陽(旧奉天)で生まれ終戦を大連で迎えました。終戦を境に日本から中国に主権は移動し、日本人の苦難の道が始まりました。侵攻してきたロシア兵が酒に酔って日本人を襲い、金品を強奪する姿を何度ともなく見るにつけ子供心に戦争の悲惨な面を実感しました。時は流れ、縁あって大連に拠点を置く日本企業から中国人の技術者に技術教育(施工図)をしてくれないかとの要請を受け、昨年の3月、60年ぶりに大連を訪れました。まず気になったのは夕刻 低く立ち込めるスモッグと石炭を燃やすことによって生じる臭い、日本の昭和20年代を思いだしました。
 あくる朝早く、宿泊先の大連港に近いシャングリラホテルを出て徒歩で中山広場に行きました。いました、いました中国人のお年寄りが太極拳をする為に何組ともなく集まっておりました。「ザオシャンハオ(お早うございます)」「ウオーシー、イーベン(私は日本人です)」片言の中国語で話しかけると、聞けば大連のお年寄りは日本語が出来る方が多いいとの事、早速太極拳の俄かレッスンを受け、輪の中に入れてもらいました。そしてお年寄りから日本人が建てた建物の説明を受けました。ヤマトホテルは竣工後93年を経過しておりますが今なお大連一の評価を受けているとのこと、旧横浜正金銀行大連支店、朝鮮銀行大連支店等も名称が変わっているが大事に使われているとのことでした。大連駅は上野駅に良く似た設計ですが、市の機能の中心の役目を果たしている様です。中国の建築技術者は頭の回転の速い人が多く見受けられましたが、その技術者を束ねるマネージャーが不足し、そして日本の建物の緻密さが理解出来ていない様に感じました。技術教育を終えて一日休みをもらい通訳の関金玉橋さんと一緒に60年前に私が住んでいたと思われる地域の散策に出かけました。拙い記憶を頼りに探しましたが、その地域はフエンスで囲まれており、自由に出入りが出来ない様子でしたが、関さんが番兵と話しをしたところ何故か入れてくれました。その地域は明らかに昔の日本人の居住地域で、苦しかった戦後の時代を思いだし、思わず涙・・私の家は時間がなく見つけることはできませんでしたが満足いたしました。今回の旅の楽しみにしていたアカシアの街路樹はほとんど見られず、何時の時代か道路拡張の為?切られた様でした。残念!。
 だが、もう一度ゆっくり歩いてみたい町です。

1937年竣工、設計は満鉄の太田宗太郎といわれている、今もって大連の玄関口である。

大連ヤマトホテルは1914年に竣工した、設計は満鉄の太田穀といわれている。現在に至るまで大連を代表するホテルである。