「Yトラスの開発」・・・・  前田親範

 同じ絵画を見ていても、見る人の知識や経験で、あるいはその人の思いなどで、見方や感じ方、価値観も変わるものである。
 新日鉄の岩田さん(現神奈川大学教授)は「これだ!・・・筋がいい」と言い、小池酸素の水津常務は「ダイレクトCNCだ!・・・大河内賞、総理大臣賞は間違いない、紫綬褒章も夢ではない」、竹中の最上さんは「ウ・・・」、大田さんは「電車の中でズート考えていたが、あれはいい」と、設計事務所の先生方は「これで特許なんておこがましい」、「鋼構造界の久々の快挙だ」などなどである。
 これは200Mドームを創るためにトロントドームを見てきた岩田さんが「サイズの違う角型鋼管同士を直接溶接している。あれでは局部座屈が起きてしまうが、何かいい方法は無いか」のリクエストに応えた下記のスケッチである。
 私の部屋の天井には「いすか接ぎ」の棹があり、毎晩寝るたびに「どうやって力を伝えているのか」を考えていた。岩田さんと「あーじゃ、こーじゃ」やっている時たまたまAWSの表紙が目に付き◇もありかなと思い付いた。
 岩田さんは即断、即決で開発を指示、特許を出すよう云われた。私の上司からは「夢をみるのもいい加減にしろ」と云われ、水津常務は7軸ロボットを提案し、最上さんは追加特許を出願し、大田さんは初めてのプロジェクト(横浜アリーナ)を創ってくれた。四面楚歌の社内にプロジェクトXができ、小名木さん、松岡さん、松下さん、田中さん、遠藤さん、2,400万円の開発稟議に印判を押してくれた吉田部長(当時)、皆さんのおかげで開発は進んだ。
営業は新日鉄の児玉さんとの二人三脚、「全国の小中学校、高校大学の体育館は全部Yトラスで」の意気込みで、先ずは北大体育館から始まり九州まで行脚した。
岩田さんの発案で、単層シェルドームへの展開も進み、スペースワールド゙のドームも成功した。当時はドーム球場の黎明期でもあった。
 しかし、軽く・美しく・強靭なYトラスも、少々重くても、ボルトだらけでごつくても、安い鉄骨には勝てなく、コンスタントに必要な生産量が確保できなく、Yトラスラインは次第に埃を被っていった。
いつの日か、どなたにか、Yトラスの素晴らしさを再発見してもらいたいものである。