観・想・考11

「木造耐火建築物?」 ・・・・・ 泉 潤一
 木造の防火的冷遇の歴史は昭和34年の日本建築学会における木造禁止決議に始まると聞く。これを契機に建築法令上も木造は公共性が高い一定規模以上の建物や市街地建物の世界から締め出されることとなった。もっとも当時の木造は殆ど防火的措置が講じられておらず、対策と効果が不明であったのも事実で、結果的には市街地大火が激減した。
 昭和50年代以降、ようやく防火工学の世界で木造の防耐火性能に光を当てようとする気運が高まり、折りしも高度経済成長期とも重なって実大火災実験が数多くこなされ、これらの成果を基に木造の規制緩和が段階的に進むこととなる。
 私は建設省建築研究所(現 独立行政法人 建築研究所)でおこなわれた昭和62年 準防火地域の3階建て戸建住宅、平成3年 3階建て共同住宅、平成8年 準防火地域の3階建て共同住宅の各法改正に関わる実大火災実験の実験棟建設に携わることができた。自ら多くの実験を目の当たりにするにつけ木造の安全性を実感し、いよいよ冷遇されているとの憤りを強くしていった。社内では外野から「また火遊びしている」とか「放火屋」とか揶揄されたりもしたがやり甲斐を感じていた。
 時は至り、昨年施行された建築基準法ではついに本丸である耐火建築物の門戸が木造にも開かれた。感慨深いものがあると同時に新たな技術開発のチャンス到来に期待がふくらむ今日この頃である。


「文化の伝承(ある同人誌を読んで)」・・・幸崎康治
 明治初期の日本の文化について米国の生物学者E・S・モースは言う。「自分の国では道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を日本人は、生まれながらに持っているらしい。すべての自然物に対する愛、あっさりとして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやり。これらは恵まれた階層の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」と。
 又、日本で教鞭をとる呉女史は、日本人は枯れて散る花、落ちて朽ちる葉、叢雲に翳る月、実らぬ悲恋等に美しさを感じて心が満たされるが、自分の国では満開の花、生い茂る青葉、満ちて輝く月、成就して遂げる熱い恋こそ美しさを感ずると述べておられる。
 いずれも日本人の美意識にふれた話であるが、しかしふと自分の周りに目をやれば、日常生活の中で自然に触れる機会は極めて少なくなり、ごみと悪臭と騒音と見知らぬ隣人ばかり。
 そんな中で日本の文化はくらしに沿ったものではなく、好事家の対象として受け入れられ、だんだんと形式化していくのではなかろうか。
 俳句人口三百万人の事実は素晴らしいと思うが、その精神がきっちりと受け継がれることが必要であろう。我々戦前生まれの人間が日本の伝統文化について引き継ぎたいと思っても、若い世代は世界に目が向いており、世界の美しい物を見、彼らなりに受け止めており、若い人のグローバル化のスピードは非常に早く、従来の伝承手法では追いつけない状況にあるのではないかと感ずる。

 「1つの開発事例」 ・・・・・長  進
 現在、私の在席している横河ブリッジにはY.M.Aシステムと言う、開閉屋根の商品がある。Y.M.Aシステムは、1976年より2〜3年を掛けて商品開発を行い、これまでサッカー場等大型数ヶ所を併せ150件位を世に出した。最近では開閉屋根と言えば一般化し、建築のジャンルとして市民権を得たのではないかと考えている。しかし、開発当時はドイツ、フランスに原型があるのみで、我国には存在していなかった。
 私を中心に数人でY.M.Aシステムの開発を行ったが、今振り返れば技術、法規、販売面等で笑い話の様な事の連続であった。私は機械工学出身であり、それまで建築に関しては全く携わる機会はなかった。
 1号機は袖ヶ浦町のスポーツセンタープール棟に採用された。確認申請に際しては法の解釈で不明点が多く、土木事務所より県に、県より建設省へと盥回しにされた。建設省に伺った時、当時の建築指導課構造係長より建築基準法関係法令集(赤本)を示されたが、初めて見た物であり、その内容を墾切丁寧に教えて頂いた。構造係長もびっくりしたろうが、本人も赤面のいたりであった。結果は、法38条に抵触しないとの方向で考えるが、建築センターの評価を取得することで話し合いが付いた。
 現在、大型も含め開閉屋根の設計法は数点特長的なことがある。特に、地震荷重、風荷重等の取り扱いあるいは開閉管理をセットで考えているが、これは当時の方法をそのまま踏襲した型となっている。