この度 韓国光州市で開催された「韓日友好交流合唱コンサート2006」に出演して参りました。 11月23日に成田を出発し26日に帰国という慌しいスケジュールでしたが大変楽しい、有意義な旅であったと思います。韓国は私にとって知人も少なく、政治の世界でもギクシャクした関係があり「近くて遠い国」という印象がありましたが、今回の参加によって「近くて近い国」に意識が変わって参りました。その要因は韓国の市民の方々が暖かく私達を迎えてくれたことでした。 今回の企画は戦前に朝鮮に住んでおられ、戦後日本に引揚げて来られたオーケストラ指揮者であった水野允陽先生の呼びかけで日韓関係を民間ペースで少しでも改善できないかという思いから始まり私達が共鳴して実現したものです。 出演日の午前中 主催者側の計らいで光州教育大学付属小学校を見学しました、校長先生、教職員、生徒達の暖かい歓迎を受けました。生徒たちの描いたポスターには“歓迎 日本文化芸術人”(私は少し恥ずかしかった)とあり、会う生徒たちは口々に「アンニュハセヨ」そして授業の内容が民族芸能の伝承に力を入れているのが良く分かりました。日本での受験目当ての授業内容とはかなり違いがある様に思いました。 さて今回の演奏会ですが指揮者は光州市立交響楽団の常任で韓国の代表的な指揮者の一人GEUM・ KOSANGさん合唱は日本から40人韓国から60人強の編成で「第九」と韓国民謡「故郷の春」を演奏しました。光州市立文化芸術劇場は満席に近い盛況で大変な拍手喝采を受けました。出演前の控え室は日韓の混合の相部屋彼方此方で共通語であるブロークンな英語で話しに花が咲きました。今回の旅の収穫はホテルで3泊同宿させていただいた本郷4丁目で声楽を指導されていて76歳になられる白井眞一郎先生(芸大時代は声楽家 故五十嵐清さんと同級生)に声楽のレクチャーを受けると共に求めに応じて私の浅い建築の知識を聞いていただいたこと大変な収穫でした。 ソウルでは三星コーポレーションで技術指導をしている大成OBの塩谷さんと久方ぶりにお会いできて旧交を温められたことも大変嬉しいことでした。 一時的な韓流ブームに流されることなく心から打ち解けて話しができる「近くて近い国」にお互いになりえればと私は思いました。来年も機会があれば歌いに行きたいと思います。 |
今年の夏、生まれて初めて富士山に登った。盆休みの1週間前に知人に誘われ、二つ返事で参加を決めたものの、最近はスポーツで身体を動かすこともなく、自営業になってからは通勤で歩くことすらなくなっていたので、山を登る体力があるか不安だった。出発前に、近所の理髪店の主人に富士登山のことを話すと、「それはいいですね。僕も数年前初めて登り、あまりの感動から、その後もう一度登りましたよ。」と言う。体力面の不安を口にすると、「大丈夫、誰でも登れますから。ただ、僕にとっては、今まで生きてきた中で、一番辛い経験でしたけどね・・・。」と、なんとも微妙な言葉が返ってきた。 多少の不安を覚えながら迎えた登山当日。電車で河口湖まで行き、そこからバスで5合目まで 登る。5合目に着いたのは午後11時。夜明けまでに山頂を目指す。人に聞いた話では、富士登山は、前日途中まで登って山小屋で一泊し、早朝未明に山小屋を出て山頂で御来光を仰ぐというのが一般的らしい。一泊しないで徹夜で登るのは結構きつい。 登り始めて暫くはなだらかで広めの登山道が続く。その後、草木のない岩だらけの光景となる。6合目以降、30分〜1時間歩くごとに集落状の山小屋が現れる。上に行くに従って、商品の値段も上がっていく。下界のスポーツ用品店で800円だった缶入り酸素は、5合目で1,500円、途中の山小屋では1,800円だった。 3,000mを越えるとかなり寒くなる。軽い酸欠も覚える。頭がしびれるような感覚。これがいわゆる高山病の前兆かと思いながら、時折缶入り酸素を吸って登る。幸い激しい高山病に見舞われることなく登りきることができた。御来光を迎えたのは9合目付近。残念ながら曇っていて、雲の隙間から太陽が顔を出すのを拝むことになった。山頂では一杯800円のラーメンで身体を温める。ゆっくりしたペースで登ったおかげで、頂上に着いても体力的にはまだ余裕があった。 ひと休みしてから下山開始。下山道は「大砂走り」と呼ばれる砂利道で足元が安定しない。歩くというより、砂利の上を滑っていくような感じで下りていく。ここで体力の限界が来た。脚に掛かる体重を支えきれない。筋肉が疲労困ぱいして力が入らない。たびたび砂利の上に座り込んで休憩を取る。これは確かに今まで生きてきた中で一番辛い経験かもしれないなと思った。ただ、下山途中の「宝永火口」(富士山中腹で1707年に噴火した火口)から見上げる富士山頂は絶景で、今まで生きてきた中で最も感動的な風景だった。 |