一口にコンクリート技術といっても、その内容は設計・構造・材料・製造・施工・品質管理など多義に及んでおり、1個人で総括することはとても不可能である。そこで、本シリーズでは私の専門である材料・施工分野における技術の発展を3回にわたって述べることにする。なお、私が大学を卒業したのは1949年(昭和29年)であるから、それ以前の状況は文献に基づいて記載した。 建設産業の進歩は電気や化学など他の産業と比べると遅々たるものがあるが、それでも戦後の50余年を振り返ってみると、時代とともに大きく変わってきたことが分かる。その過程を筆者なりに考察すると、準備期・復興期・発展期・成熟期・模索期に大きく区分することができる。これらの時代区分と、発展の指標となる建設投資額、セメント需要量、生コン工場数の推移を図・1に示す。また、この図には時代の流れの中で起こった主な事項を併記した。 1.準備期(1950年以前) 太平洋戦争が勃発(1935)した前後から終戦(1945)後の暫くの間は建設資材が統制されていたため建設工事の停滞が続いた。その期間、コンクリート構造物は殆ど建設されなかったため、約10年間にわったってコンクリート技術の空白時代が続いた。しかし、敗戦の悪夢から覚めるとともに国家再建の意欲が高まり、建設省(現国土交通省)の設置(1948)、建設業法の公布(1949)、建設基準法や建築士法の制定(1950)など復興に向けての基礎固めが着々と進められた。 この時期に特記すべきことは生コンの誕生である。コンクリート工事はまだ僅かであり、あったとしても工事現場でコンクリートを製造するのが当たり前であったその当時、東京コンクリート工業が早くも業平橋に生コン工場を作り(1949)、販売を開始した。その後、アメリカのASTMにならってJISA5308 「レディーミクストコンクリート」も制定(1953)された。しかし、この時点での生コン工場は東京と大阪を合わせて僅か6工場であり、発展をみせたのは次の復興期に入ってからのことである。 2.復興期(1950〜1960) 復興のきっかけとなったのは1950年に勃発した朝鮮動乱であった。軍事物資の調達で生産活動が復活し、日本経済は立ち直った。それに伴って建設工事も活気を取り戻し、復興期を迎えた。最初に着工(1950)されたのは新丸ビルで、続いて東京ビル、日活国際会館など大型のビルが建設された。新丸ビルでは始めてバッチャープラントが導入され、日活国際会館では潜函工法が注目を集めた。また、1959年開催の第3回アジア大会に向けて建設された国立競技場では、高炉セメントや砕石が使用された。 コンクリート工事の基準となる日本建築学会の鉄筋コンクリート工事標準仕様書(JASS5)は既に1929年(昭和4年)に作られていたが、1950年に新版が制定され、コンクリート技術の回復と普及が図られた。また、AE剤・分散剤などの新材料がアメリカから導入され、合板型枠工法、プレハブ工法、PC構造などの新工法はコンクリート技術に変革をもたらした。私は学生時代にリーダースダイジェスト東京支社(1951)を見学し、そこに使用されていた打放しコンクリートの木目肌の美しさに感動したが、それ以来、コンクリート打放し仕上げの建物が流行するようになった。 3.発展期(1960〜1970) この時期はいわゆる高度成長期で、東京オリンピックや大阪万国博覧会に向けて建設工事が躍進した。新幹線や高速道路が開通したのもこの時期で、コンクリートの使用量が増大し、1970年には生産量が約1000万m3に達した。この頃から生コン工場は全国各地に作られたので、専ら生コンを購入して使用するようになり、工事現場でコンクリートを製造することは殆どなくなった。以来、コンクリート技術における重要な要素であった材料・調合、製造という一連の過程を生コンの製造業者が担うようになった。この時期、コンクリートの運搬・打設にも大きな変革があった。これまでは主としてネコ車を人力で運搬し、竹竿で詰める方法がとられていたが、1965年頃からコンクリートポンプで圧送し、バイブレーターで打ち込むようになって、運搬・打設能力が飛躍的に向上した。 一方、コンクリートの工業化を図るため、コンクリートのプレハブ化も進んだ。日本住宅公団(設立:1955、現住宅・都市整備公団)では大型プレキャスト版による組立て工法や、鉄骨との併用によるHPC工法を開発し、多くの団地が建設された。人工軽量骨材もこの頃から使用され始めている。また、外装には金属カーテンウォールが使われていたが、デザインの多様性からPCカーテンウォールを採用したビルも設計された。しかし、このような急激な工事量の増大は一方では労務・資材の不足を招き、欠陥構造物として将来に禍根を残す結果となった。 4.成熟期(1970〜1980) その後も田中内閣の日本列島改造論などで暫く好況が続いたが、1973年に勃発した中東戦争の影響で景気は停滞し(第一次オイルショック)、コンクリート工事においても合理化や省力化によるコストダウンが求められた。その対策として、流動化コンクリートの使用やブーム付きポンプ車による打設などが行われるようになった。また、システム型枠、組立て鉄筋、ハーフPC部材、積層工法など新しい工業化工法が実用化された。大石寺正本堂、ホテルニューオータニタワー・サンシャイン60・安田火災本社などの超高層ビル、あるいは高浜・伊方などの原子力発電所もこの時期建設され、まさにコンクリートは成熟期に達した。これらの技術・開発は次の高層RC造へと発展してゆく。 しかし、1978年に発生した第2次石油ショックで、再び景気は下降線をたどることになる。 5.反省期(1980〜1990) この頃から高度成長の歪が現れ始めた。半永久的であると言われたコンクリート構造物が塩害によって10〜20年で劣化することがNHKや雑誌に報道され、大きな社会問題になった。また、これまで心配ないとされていたアルカリ骨材反応が発生し、コンクリート関係者に衝撃を与えた。そこで、官民共同でこの問題の解決に取り組み、コンクリートの耐久性向上や品質改善が図られた。その結果は建設省通達として出され、日本建築学会の仕様書やJIS規格も改訂された。また、建設業界ではTQCを導入する企業が増え、品質管理に勤めるようになった。(これらの状況については、サーツ会報9号に「コンクリートの耐久性問題に対する一考察」という記事を載せてあるので参照のこと)。 後半になると、政府は民活による内需拡大政策を図った。これにより景気は過熱気味になり、都市部を中心に高層建築が乱立するようになった。 6.模索期(1990〜2000) このバブル景気も政府の地価抑制策により急激に崩壊し、以後10数年に亘って経済の低迷状態が続くことになる。建設業界においても、資金繰りが苦しくなった中小ゼネコンの経営破綻が相次いだ。このような時期ではあったが、コンクリート分野では前期から進められてきた高強度化や高流動化などの開発が軌道に乗り、RC造による超高層建築や振動締固め不要な高流動コンクリートなどの新技術が誕生した。また、コンクリートの解体によって発生するコンクリートガラを再生骨材として有効に再利用するための研究・開発が行はれ、指針も作られた。 しかし、後半になってからは公共工事に対する建設投資額が次第に削減され、民間工事も減少したため、建設業界にも不況の波が押し寄せた。それに伴って研究開発費は縮小され、最近では注目すべき新しい成果も見られない状況である。これから21世紀に向かってコンクリート技術はどうあるべきか。資源の確保、環境の改善、労務者の高齢化、老朽化した建物のリニューアルなど解決すべき課題は多い。現在はそれらの対応を模索している時期かもしれない。 |