「 EXPO‘70から海外プロジェクトへ 」・・・伊藤誠三
40年近くになる設計一筋の人生で1970年の大阪万国博覧会を忘れるわけにはゆかない。その後の道筋をすっかり変えてしまうことになったのだから。 その頃、私は大成建設大阪支店の設計部にいて、ベルギー館とチェコ館を担当した。本国建築家の基本設計図から実施設計図を作成、法的申請、監理の業務であった。ベルギー館はフランドル地方の豪農の家からヒントを得たという大屋根のRC壁構造の建物、チェコ館は新しい構造形式のフラットなガラス張りの透明建築。対照的な表情、構造への興味もさる事ながら、一方は君主国、他方は共産主義国という異質の建築家との協働で得たものは計り知れなく、それまで活字、 真でしか知らなかった世界への道を開いてくれたのである。 博覧会終了後、ベルギー館設計者のAndre Jacqmainのアトリエに籍を移すことになった。家財を3個のトランクにまとめた決断であった。 3年半後帰国したが、その滞欧中に、欧州での設計に於けるモラルや感覚の理解、実務体験の他、北欧の北端から南はモロッコまで、各国、各地の多様な生活と建築を見ることが出来た。優美な姿、奇妙な形態、それぞれに土地に添い、生活を し、構造的理由を持っていることが感得出来たのである。以降、設計の信条を問われれば、「生活派の素朴機能主義」と答えるようになった。 この経験のお陰か、帰国後は多くの海外PJを担当することとなり、人生の範囲が世界に広がった。 最後の海外PJ.は1998年に竣工したケニアへの国際協力案件である。治安の不安も有りながら、土地の人とのいろんな出会いも良かった。殆ど人前に姿を見せないと云われるモイ大統領を現場にご案内し、計画説明したのも大きな出来事であったが、何より週末にはサバンナの風光に触れ、荒々しい野生動物の生活を見て、体中に溜まった生活の澱がすっと消える思いがしたものだ。 私の記憶に残る大切で最大のものは海外プロジェクトにおける多様な人々との出会いであろうか。 |