「応急危険度判定への素朴な疑問」・・・・伊藤誠三

 少し前の事になるが,去る7月16日朝に発生した中越沖地震災害の際,建物の被害について直ちに被災建築物応急危険度判定士が出動し,建物の危険度を示す張り紙をしたという新聞記事を読み,この制度も軌道に乗ったのかと言う感慨があった.同時に,嘗て自分が経験した時に感じた危険度判定のあり方に対する疑問が再びよみがえってきた.
 この制度は平成7年1月17日未明に発生した兵庫南部地震(神戸大地震)の際に実施されたのが初めてと聞いているが,この時,私も参加したのだった.確か,日本建築家協会のボランティア要請に応じたのである.私自身は構造が専門ではないが,大阪出身で,倒壊の被害を受けた知人,縁者も多く,心情的にも参加したといえる.
 当時のメモを見ると,2月2日夜に東京を発ったとあって,地震発生後,2週間余もたっている.京都に1泊,翌朝,尼崎までの電車の後,バスを乗り継いで西宮市役所に集合,3人一組のチーム編成で腕章を貰い,割り当ての地区に散った.
 現地の状況はといえば,全く手付かずの状態で,建物自体の危険度は一目瞭然のものが多く,何よりも危険度は住民が直感的に知っており,インフラも止まっていることから,無人化している家が殆どであった.判定員が回っているというので,避難所から駈け戻ってくる人もいたが,地区によっては一律,赤札が張られて,一斉に避難させられていたところもあったようだ.そのような建物は問題なしとして赤札を剥がすことになったが,住民はまた避難所に戻っていった.水,食料の救援物資の供給を受けるためである.
 隣家に寄りかかって,今にも倒壊寸前の建物に頑張る人達がいた.避難を説得しても家主を呼んで来てくれといって応じない.それまでの居住権がどうなるのかという家主との関係が未確認で,単純には出られないというのが借家人としての言い分であった.崩れかけた長屋に立ち尽くす家主のおばあさんが居た.借家人が突然,すべて消えてしまったのである.「私はここの家賃で食べてますねん.あとどないしたらええやろ.」 と縋るような目を向けられた.危険と判定した理由を説明後,改修についての相談もあった.家主にとっては切実な問題ながら,その点には今回対応できない旨,伝えると,無責任だとなじられた.長年,設計者として仕事をしているので,どうしても丁寧な応接をしてしまうのである.
 その後,私の住んでいる世田谷区の判定員登録に応募し,講習会に出かけた.その際,質問を求められたので,上記の経験を話し,「内容は民事に係わるものであるが,それらの対応に対するQ&Aのようなものを共有化しておく必要があるのではないか」と述べたが,無関係のこととして相手にされなかった.
 応急危険度判定とは「家屋の財産的被害程度を認定する罹災証明とは異なる.」と規定し,単に構造体の危険度を判定するものと限定しているのだが,単に構造体のみを取り上げて,危険度を判断する事にどれ程の意味があるのだろうか.「住まい」の機能を失ったものを「構造上安全」と判定して,よしとするのだろうか.インフラも途絶え,近隣の商店も壊滅しては,食料を求めに避難所に行くしかない.
 「住まい」としての総合的な機能判断から安全度を判定する謂わば,「住まい安全度判定」に視点を変える必要があるのではあるまいか.構造体危険度はそのほんの一部に過ぎない.