「三原橋松屋ビル」・・・・伊藤誠三

  竣工が確か昭和38年だから,44年前の事になる.私は卒業後,ゼネコン設計部に入って2年目に担当した.基本設計が白井晟一氏でその実施設計の図面を引いたビルである.低層部に親和銀行東京支店が入っていた.
 今年の初め,久しぶりに銀座に出る事があって,4丁目角を少し築地の方に行ったところにあるそのビルをいつものように見上げたのだが,暗い夜空だけが拡がり,その姿はかき消すようになくなっていた.まるで流行のイリュージョンを見ているようで呆気にとられた.解体撤去されていたのである.その夜は一人酒で氏を想い出す事となった.
 基本設計といっても一般図の青図を渡されただけなので,全てを聞き取りながら図面を作っていった.先ずはその図面を引いた所員の中村氏との確認であったが, 1/100,9Hを針先のようにとがらせて精緻に描かれた平面図は読み取るのに馴れが必要であった.例えば,扉の開き勝手が分からず質問すると,良く図面を見てくださいといわれる.目を凝らすと,蝶番,レバーハンドルが書かれていた.図法で示す円弧など,そんな線は存在しません,といった具合.役員室の一部に畳が敷かれていたが,畳の目まで書き込まれていた.寸法の記入は殆どなかったが,天井高7尺1寸5分,扉幅2尺2寸5分と言うように,氏の決まった寸法があった.
 詳細になると書斎で対面での打合せとなった.薄暗い部屋で照明がこちらを向いており,白井氏の眼鏡が暗闇の中で光っている.氏の背後に書道全集だけが並んでいたのを覚えている.大概は当方の図面を校閲してもらうのだが,時々,書道用の半紙にうっすらと線を引いてもらって図面化したこともある.仕様の聞き取りには当方の未熟もあって,困難を伴った.サッシュを「スチールでいいよ」と言われ,その通り仕上表に書いていたのだが,後でそれがステンレススチールのことだと判り,あちこちから叱られることになった.その上,断面形に無理が多く,製作図に難渋した.役員室の外部窓に障子があり,障子の仕様は「スギ,ウヅクリローミガキ」と言われるままにメモしたが,「卯作り蝋磨き」の意で,それは家具の仕上げであり,障子の桟には無理と判るのに数日を要したというようなこともある.流政之氏の作品によく使われていた庵治石が低層部外壁に大量に使われたが,これは建材としては不向きの石材だったようだ.数年後,目地周りに大きなしみが出ていたのである.特に石の仕上げについては氏の思い入れも強く,その納まりについて専門家の指導を受けたりした.
 その他,法規,材料,各部の納まり,伝統的建築用語など,多くのことを勉強する事ができ,長らく,初学の頃のほろ苦くもあるモニュメントの一つと思っていたが,解体撤去されてしまえば,それも単なる追憶の中にのみ残ることになってしまった.

記憶を辿って,スケッチしてみた.念の為,真向かいの喫茶店のウエイトレスにこんな姿だったかと確かめたが,全く憶えていないと言う.数ヶ月前まで毎日見ていたはずなのに.消えし物かくの如きか!