CPD(Continuing Professional Development)と WBT(Web based training)・・・・伊藤誠三                             

 CPDという略語は,以前は一般紙において包括的軍縮計画の事だったが,昨今は業界紙においてだが,継続的職業的能力開発の意として,殆ど注釈なしに使われている.
 これは数年前のWTO発効を機に,米国から建設市場開放の要求と共に,設計業務における米国建築家資格の認証を求められた際,日本側から相互認証の要求をしたところ,教育制度の違い,資格取得後の職業的継続教育制度の欠如が指摘され,急遽,建築家資格の国際性への対策として問題化したと記憶している.
 実際の設計市場の開放は郵政省工事の設計を手始めとして,いくつか基本設計を発注し,米国設計事務所も日本人建築家を雇って実務に当たり,関連の体制も整って外圧は回避されたのだが,日本側の建築家資格の相互認証の課題だけが残ったというわけだ.設計業務が受注できるとなれば,米国にとっては建築家資格の相互認証の意味はないから,今更,日本側で制度を整えても相互認証に応ずるとは思えない.特に,建築は,土地の歴史,文化,制度,法律に深くかかわるものであるから,他国の建築家が現地状況を悉皆する事は難しいし,自国建築家の業務権益の保護という意味もある. 「教育・資格の国際的同等性を如何に担保するか」,というテーマも理解できるが解決は難しい.私見では,大阪万博のとき経験した外国建築家の設計には自国コ・アキーテクトの協力を義務付けるという程度の事がもっとも妥当であろうと思っている.
 CPDの問題自体は相互認証の有無にかかわらず,重要な課題と思うが,今のところ,相互認証がらみのためアメリカ追従で,AIAで実施している方式をそっくり真似しようとしているのがどうも気に入らない.セミナー・見学会への参加度数を計数化し,デジタル処理するアメリカ方式ではなく,ほかの方法はないものか.
 資格そのものについて言えば,例えば,小型船舶操縦士というのがある 40年位前,盛んになり始めたプレジャーボートによる事故が相次いだため,制定されたが,今では細かくクラス別けされ,利用海域などを制限している.しかし,現実の自然現象は資格の等級には容赦なしだ.個人の技量が基本で,それが至らなければ,湖でも沈没,死亡事故を起こしている.資格は技量を保証するものではない.そのため,各部門の技術者は資格の有無にかかわらず,その技量の向上に経験,努力を積み重ねているのである.
 「何かを知っている事」と「何かができること」とは自ら異なる.知識は本などを参考に蓄積できるが,技能は実務経験でなければ習得できない.知識はあるがスキルがないのでは意味がない. こつ,ノウハウのようなものの伝達も同じ場面を経験した人でなければうまく伝わらないのである.その辺に職業教育のポイントがあろう.
 技術の習得には基礎知識,それは文章や図で伝えられる事が効率的であることが多いが,それと共に,文章表現では難しい,見よう見まねで覚えるようなこつ・ノウハウの両方が必要だ.
 WBTとは e-LearningとかIT教育とも言われている. インターネット利用の普及拡大で情報伝達手段も変わってきた. 以前,ソフトを買うと沢山の冊子が付いていたが,今は殆どそれがない.インターネットで参照する仕組み(オンライン・マニュアル)になっているからである.更に,いろんな教材が音や画像を含み,進化して提供されるようになり,今や,コンテンツ産業として分類されるようになって来た.
 しかし,それらが一方向の伝達という形式である限り,本質的に旧来の教材となんら変わるものではない.前述したCPDに期待する立場から言うと,双方向で情報のやり取りができる(インタラクティブと表現される)という,ITが持つ特性を最大限に生かした仕組みがシステムに織り込まれている事が必須である.現実には更にいろいろな双方向の応答で効果を挙げる仕組みが工夫されているが,さらに一歩進めて,小集団活動(グループワーク)のような取り組みが必要なのではないだろうか.技術の或る分野,場面ごとにネットグループを作り,グループをアシストするインストラクター又はアドバイザーを置く. 英国パブリックスクールにおけるテューターのような仕組みはどうだろうか テューターには現役を退いたヴェテランが望ましい.
 蛇足だが,スキルアップのプロセスの点数化には実効的な意味はほとんどないと思う.