まえがき
技術の変遷とは、大河の流れのように一様で緩やかなものではない。それは、無数の支流に分かれ、あるものは渦巻く急流であり、あるものは静かな淀みである。時には逆流し、時には地下にその姿を没する。この流れの全貌をとらえることは不可能に近い。 例えば、日常に飲む湯の沸かし方を考えてみよう。今でも茶室では、炉の炭火で茶釜に湯を沸かす。茶の間では、電気ジャーが普及している。厨房ではやかんで湯を沸かす。この他、湯の沸かし方には、まだまだ多くの方法がある。 このように、湯の沸かし方だけでも様々で、伝統的な古い技術と新しい技術が共存し、それぞれに重要な地位を占めている。空調設備の様に生活に密着した技術では、この傾向が特に著しい。 我われが見聞きする技術は、所詮、その一支流、一断面にしか過ぎない。ここに述べる戦後からの空調技術の変遷も、この様な意味で、筆者の見聞きしたその一支流、一断面であることをお断りしておきたい。もしこの全貌を捉えようとすれば、それは、ただの統計資料の羅列になってしまうだろう。 1 戦後の空調設備の開幕 「連合軍の日本各地への進駐により、一時その影を潜めていた暖冷房工業は、いく年ぶりかに活況を呈し、昨年末より本年(1946年)にかけて、あたかも戦争中の飛行機製造工業のごとき黄金時代を出現した観がある」(衛生工業協会誌 第20巻 第9-10号)。これは、服部功氏が敗戦の翌年である1946年に衛生工業協会誌に投稿した論文の一節である。 このように、戦後のわが国の冷暖房設備は、進駐軍施設の工事でその幕開けを迎えた。GHQとなった第一相互(現第一生命ビル)をはじめとする接収建物の改修工事、米軍兵舎、米軍家族用住宅などの建設が、1946年から1949年にかけて関係者の異常な努力によって遂行されていった。これは、まさに戦後まで継続された軍需景気でもあった。 これらの進駐軍施設工事の実施には、多くの設備技術者を必要とし、この間に米軍仕様による冷暖房技術を習得した技術者は数多く、その後のわが国の冷暖房技術の発展の方向に大きな影響を与えた。 2 国際水準への復帰 井上宇一早稲田大学名誉教授は、わが国の明治以来の建築設備を、揺籃期、(明治初期から第一次世界大戦まで)・成熟期(昭和5年から16年まで)・復興期(敗戦から昭和30年まで)・躍進期(昭和30年以降)に分類している。この分類に従えば、第二次世界大戦前、わが国の空調設備は成熟期にあり、その技術はすでに国際水準に達していた。元東京芝浦電気社員の藤井健二郎氏は次のように述べている。「戦争が激しくなると、軍からの冷房装置の注文が増えてきた。思い出すだけでも、戦車乗員用スポット冷房、飛行機のエンジン冷却装置、パイロット養成室の冷房、軍艦の測距室にあるレンズの収縮を防止する20±1℃、50±3%の恒温恒湿装置など色々手がけた。また、当時納めた冷房装置の一部が戦艦大和や戦艦武蔵に使われたことを後で知った」(空調ガイドVol 8-2 No44 発行(株)東芝空調システム事業部)。 このような技術的土壌のもとに、戦後の壊滅的な経済状態にもかかわらず、わずか10年足らずで、その技術は再び国際水準への復帰が可能となった。 3 本格的空調インダクション・ユニットの登場と衰退 戦後初の本格的なオフィスビルとして「ブリッジストンビル」(1951年竣工)が竣工したのは、戦後も落ち着きを取り戻した6年目のことだった。この建物の空調には、当時、わが国では最新鋭とされていたインダクションユニット方式が採用されている。以後、「日活国際会館」(1952年竣工)、「大正海上火災ビル」(1963年竣工)、引き続いて竣工した「霞ヶ関ビル」(1968年竣工)、「神戸貿易センター」(1969年竣工)、「世界貿易センター」(1970年竣工)などの超高層事務所建物にもこの方式が続々と採用され、その最盛期を迎えることになる。 空調設備は、米国で劇場などを対象とした大空間の空調を中心に開発された。そのため、多室空間を中心とする事務所建物に対する空調は、設計上の新たな課題だった。その解答として出現したのがインダクションユニット方式だったのである。インダクションユニット方式は、一次空気(冷風または温風)と冷温水コイルにより冷暖房を行う水・空気方式の中央式空調で、ユニットごとに温度制御が可能なので、事務所建物などの多室空間の空調に適した優れた方式だった。 インダクションユニット方式は、コンジットウエザーマスター装置として1939年、ウイリス・キャリア(1876〜1950年 米国)によって特許が取得されている。それ以来、米国においては、高層事務所建物の95%までがこの方式を採用している。わが国では、戦後いち早く建てられた高層事務所建物にこの方式が採用された。しかし、わが国にでは、「新日鉄ビル」(1970年竣工)、「朝日東海ビル」(1971年竣工)、「横浜天理ビル」(1972年竣工)などを最後に、この方式は突然消滅した。個別運転が困難なこと、フィルター性能が劣ることなども挙げられるが、その最大の原因は、法改正による床貫通ダクトの防火ダンパーの問題だった。 インダクションユニット方式では、床上に設置された多数のインダクションユニットに空気ダクトが接続される。この場合、各ユニットへの空気ダクトは、耐火区画としての床を貫通して接続される場合が多い。耐火区画を貫通する空気ダクトには自動防火ダンパーの設置が必要になる。この膨大な防火ダンパーの設置が、インダクションユニットの採用を極めて困難なものにしてしまったのである。 先年行はれた「霞ヶ関ビル」のリニュウーアル工事では、インダクションユニット方式の空調は撤去され、新方式に更新された。現在、わが国では、インダクションユニットは製造されていない。 表は、昭和40年代のわが国の代表的な超高層建物の空調方式を示したものである。この表によると「霞ヶ関ビル」より「横浜天理ビル」に至る前半9例の超高層建物のうち、そのペリメターにインダクションユニット方式を採用したものが半数以上の6例に及んでいる。一方、「大阪大林ビル」より「国際通信センター」に至る後半8例については、インダクションユニット方式の採用を見ることは出来ない。この様に、わが国では、インダクションユニット方式は突然に絶滅した。 (表) 昭和40年代のわが国の代表的な超高層建物の空調方式 |