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住宅業界での仕事が約30年。この6月で嘱託期間も終了し次のステップへと移ってゆく時期に40年ほど時代を遡ってみたいと思います。記憶を辿ると、住宅業界時代の30年よりも、未だ20代であった頃の全員で10名足らずの小さな建築会社に勤めていた時代の方が鮮明に浮かび上がる。 最初の写真は、1960年当時22歳で、戦後の賠償の一つとして北スマトラのペマタン・シヤンタル市に建設された製紙工場での現場事務所での一こま。現地に行く予定の先輩が戦時中インドネシアにいたとかでビザが発給されず、急遽派遣されることになった。渡航目的が賠償工事による役務提供ということもあって、外貨は勿論円も携行禁止と言われ、文字通り無一文で出かけた。言葉は日本語のみ。生まれて初めての航空機。現地への連絡が届いてなく誰もいない。ジャカルタでの国内線への乗り継ぎ、メダンでの一泊。身振り手振りと出発前に買ったインドネシア語会話を頼りに見事現地にたどり着いた。最後に着いた宿舎には誰もいない。本棚に並んでいる日本語の本でここが目的地だとの実感。建築技術者が私一人であったことや、インドネシア語が通訳の要らない程度に話せることになったことから、重宝がられて結局この現場で3年過ごすことになる。 この地が住友林業と大きなかかわりがあったことを知るのが10数年後のことになる。 次の写真は、セレベス島のマカッサル市(現在は、ウジュンパンダン)近郷での製紙工場建設。北スマトラでの経験が買われて、最初の現地調査から参加し、3年間現地住まいとなってしまった。 新婚3ヶ月で単身赴任、途中で長男の誕生、東京オリンピックの実況放送を、日本船の船長室で聞かせてもらったこと、小さなマグロ船の生鮮野菜や水の買付けを手伝ってあげてとんでもない大きさのマグロをお礼に貰ったこと、天然痘の予防接種がものすごく効果があることの実感、B・C級戦犯として処刑されたとされる人たちの遺骨の収容など、仕事以外にも色々な思い出がある。 もう一つ、サイゴン近郷、ビエンホワ市での砂糖工場の建設。ベトナム戦争の真っ只中での工事。再度の単身赴任、時々あったロケット弾での攻撃も砂利置場以外には着弾しなかった不思議さ、時々起こるレストランや映画館でのプラスチック爆弾、サイゴン大学女子大生に習ったフランス語(全く習熟できず)、ナイトクラブのホステスに一所懸命習ったベトナム語(これも全く通じない) 最後のドラマは、工事の終了間近での会社の倒産。紆余曲折の後に無事帰国。失業。 そして、大井競馬場で拾った読売新聞に載っていた住友林業の求人案内。そこから始まった住宅事業への参加。ここで初めてトバ湖周辺のメルクシ松が戦時中住友林業の手で植樹されたことを教えられた。 妻から送られてきた「松ノ木小唄」を聞き続けた20代であったと想いだした。 |
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