開閉式屋根の誕生とその後 ・・・・・ 長 進

私は、大学では機械工学科を専攻し、入社後は研究所にて工場設備の自動化関連に従事し、リブ端のスカラップ無人化ライン、上下フランジの矛逆歪ライン等を開発し、これまで土木・建築関係の人が余り返り見ない分野に携わっていた。
 しかし部材加工という分野ではなく、建築物そのものに係わりたいと思っていた矢先に1976年の「Stahlbeu」というドイツの技術雑誌の1コマに造船所のドッグ上を移動する可動屋根の小さな写真を見て、これを建築に取り入れて建物全体として機能できればと考えたのが開発の切っ掛となった。この試みは我が国で初めてであった。
 
開閉式屋根の変遷
 これまでの建築では、換気あるいは採光の必要性等により壁面の一部の開放が行われていた。かつての遊牧民である北アメリカのインディアンが使っていたティピーという円錐形の天幕に開閉式屋根の原型が見られる。この他、文献によれば西ドイツのR.Grofe博士が1979年に研究論文を発表している。紀元59年べスビアス火山の噴火によりポンペイの街が埋もれたが、発掘された壁画のうちに円形競技場の観客席の屋根部分が開閉式屋根であったと裏付けている。同じように紀元80年Titus帝によって完成したローマのコロシアムの遺跡の中に支柱が見られ、開閉式の幕屋根が設けられ、奴隷がこの屋根を開閉したといわれている。
 近年に入り、欧米諸国で開閉式屋根はプールを中心に開発されてきた。1969年にフランスで行われたプールの開閉式屋根コンペにおいて種々の提案がなされたが、残念にも実現には至らなかった。ほぼ同時期に建築家R.Taillibertがマスト頂部にワイヤーを介して引き上げる折り畳み式膜構造を開発した。その後、この種の開閉式屋根は多く建設された。なかでも有名なのは1976年に計画され、11年後の1987年に完成したモントリオール・オリンピックスタジアムがある。
 大規模な開閉式屋根は世界的にもそれほど多くないが、最初に実現したのは1971年にアメリカのピッツバーグのシビックアリーナが建設され世界的な注目を浴びた。その後、カナダのトロントスカイドーム、メルボルンのナショナルテニスセンターコート等が完成した。
 我が国では、私が開閉式屋根の開発を始めたのが1976年である。それ以前は農林省の試験所あるいは造船所のドッグに使用された単一の小屋あるいは上屋を左右に動かす方式が数件あった。これらは設計上および取り扱い上も建築として処置してはおらず、むしろ設備的な色合いが強かった。
 現在、日本における開閉式屋根は200件を超えると思われる。用途的にはプール上の屋根が主となっている。構造様式から大別するとS造あるいはAl造で水平移動、重なり方式が主流であり(写真1)、その他Al造で防災フィルムを使った折り畳み方式等もある。
 1万平方メートルを超えるドームの開閉式屋根は、1993年宮崎のオーシャンドームが最初であった。建築物としての大規模ドームはこれまで馴染みが少なかったが、トロント・スカイドームの影響は我が国へも開閉式屋根ドーム開発の口火となった。G・C各社が各種様々な計画例を発表したのがこの頃であった。また、前後して多くの開閉式ドーム計画が発表され、福岡ドーム、こまつドーム(写真2)等、多くのドームが完成した。これまでの開閉式屋根あるいはドームは構造的にも堅牢過ぎていたが、最近完成したサッカー場の開閉式屋根は豊田スタジアム(写真3)、大分ドーム等かなり軽快で優雅になっている。
 現在、開閉式屋根は建築基準法では当然扱われていない。この為、開閉式屋根を設計することはかなり面倒な計画、手続きを必要としている。開閉式屋根という技術が建築の中で安定した技術となり、建築界の保有する技術的財産として、欲しい時にいつでも使える技術的見本としてだれもが計画し得ることが必要である。このような状況の中で日本建築学会の中に、「開閉式屋根・構造設計資料作成ワーキンググループ」が組織され、設計、施工、研究に携わってきた専門家が数年に渡り調査・研究した結果として1993年に「開閉式屋根構造設計指針・同解説および設計資料集」が刊行された。これにより建築の中で開閉式屋根という一つのジャンルが確立した。
開閉式屋根の開発にあたって
 開閉式屋根はこれまでの建築とは技術的、法的にかなり異なっている。開発に当たっては何等参考資料も無く想像を重ね合わせイメージを創り、現在の設計法に近い部分まで理論立てを行い、幾多の課題をクリアにしプロトタイプとなる自社の体育館を完成するまで約3年を費やした。
 技術的には、通常の建築物が閉状態のみで存在するのに対して開閉式屋根構造は開状態、閉状態およびこれらの中間位置における走行・移動の状態を有するのが大きな特徴である。開閉式屋根といっても、空間の利用方法、規模等によって開閉目的が異なる。全開、全閉または半開で固定し、各々の状態で最大荷重の十分耐えるように考えると、構造上あるいは経済上の問題を多く抱えることになる。この為、設計上でも管理システムを想定し、管理面も要因を絡ませて構造安全性を決定する新しい考えを導入した。
 例えば台風時の風荷重に対しては、構造的に最も有利で、しかも頻度の多い状態である全閉状態(全開の時もある)に移して抵抗させる。その他の状態では、荷重条件の良いときにのみ使用することを前提として風荷重を決定した。勿論、その為には管理システムで各種条件を完全にバックアップすることが必須となる。雪荷重に対しても同様に考えた。この他、地震荷重に対しては、開閉式屋根構造が全開、全閉状態でおのおの耐震的でなければならないが、特有の問題として走行移動中の地震がある。小規模の開閉屋根では考慮しないが、大規模の場合ではレベル1で安全、レベル2で大きな障害のないことを前提とした。
 開閉式屋根構造では建築基準法に規定している荷重以外にも走行・移動等の特殊荷重、例えば慣性力、遠心力、制動力、車輪側方力、レール敷設に伴う支点強制力、バッファへの衝突力等を考える必要がある。
 許容応力および安全率であるが、建築にとっての上部構造の安全率と建築基準法以外の材料を多用する開閉機構部の安全率にかなりの落差がある。前者は建築基準法に準ずるが、後者の取り扱いについては悩んだ。統一的な取扱は規定しなかったが、開閉機構部のあらゆる条件を勘要し、部位毎におのおの決定した。
 この他、フェルセイフの思想も不可欠であり、部分的な欠陥あるいは故障があっても、他の部分に影響を波及させないバックアップシステムの確立も重要であった。
 法的の面を記述する。
 技術開発も目途が立ち、商品販売に先立ち技術上あるいは法上に検証を行うことを目的にプロトタイプを建設することになった。プロトタイプは自社の体育館とした。確認申請を提出したが法的に解釈不明点が多く、土木事務所により県の本庁に、さらに建設省にと盥回しにされた。行政では車輪を有し移動するものであるから運輸省あるいはクレーンに準じ、厚生省の取扱いになるとの意見もあった。特殊事例も引き出され横浜港に永久係留された氷川丸等の話も出たが、最終的に建設省の所轄と決定した。
 これまで、開閉式屋根は建築基準法38条に抵触すると規定されているが、1979年当時では始めての試みでもあり、建築センターの評価を取ることで了解が得られた。したがって、我国では本開閉式屋根が初めての建築のルールに載って措置されたと言ってよい。以降の数件はプロトタイプの評価を示すことで確認申請のみで処理された。その後、1984年に建設省から呼び出しがあり、「今後、この種の建物は法38条に抵触する」との見解が出された。1990年には開閉式屋根としての一般認定を我国で初めて取得した。ちなみに、抵触理由は、「当該建築は滑接支点機構を有する特殊構造の建築であり、建築基準法第20条、法38条に抵触する。又、関連する法令とその抵触理由は施行令第87条、令第90条、令第60条である。」と規定された。
あとがき
 これまで約20年間、開閉式屋根の開発に始まり、法的への対応、外部での技術資料、指針等の協力、販売等、かなり特異な分野にタッチし、最近では大規模なサッカー場の開閉式屋根にも携わってきたが、当初、雑誌の1コマとの出会いがこのような形で現実化するとは思いもいたらなかった。まさに「一期一会である」の威を深くするところである。
 かくなる成果を得られたのは多くの人々に力づけられ多大な応援を頂いた結果であると思っている。又、これを通して数多くの知人、友人を得たことが何よりも替えがたい思いでいる。
写真1 S造水平移動重なり方式開閉式屋根
写真2 S造両開き方式のこまつドーム
写真3 二重膜折り畳み開閉式屋根の豊田スタジアム