プレハブ住宅の開発は、基本的な構法開発から始めて、ジョイントやストレススキンパネルの開発実験等を一歩一歩積み上げて、建築センターの構造評定をうけ大臣認定の取得といったプロセスを経て初めて商品開発にいたる。その為の費用と時間と人的投入量は大変なものである。そのかわりそれに携わった技術者は基本から鍛えられ育ってゆく。
ツーバイフォーの場合は国が定めた枠組壁工法技術基準によって構法も材料も規定されて、いわば「棚から牡丹餅」といった状態で始まったために、基本的な構造の理論とそれを実験で検証する修練を受けている技術者は極めて少なかった。
創業5年目の三井ホームの場合もトップシェアを占めていたが、私が入社当時は社内にはデザインと施工管理の経験はあっても、住宅技術開発の基本の修練を受けている技術者は殆どいなかった。
技術基準で各社横並びでは、差別化はできない。将来を踏まえての技術開発・工法合理化・特許考案等を行い、業界をリードできる技術開発力を創りあげなければ、強大なプレハブ住宅メーカーに伍して発展してゆくことは難しいと開発技術者の育成に注力した。建研に部外研究員を継続的に派遣しているのもその一環である。
印象に残っている開発としては、
・ ツーバイフォー工法CADの開発(1984)
今は、パソコンCADが実用化されているが、未だホストコンピューターの時代に開発を始めて、エンジニアワークステーションを使用した設計積算CAD開発を、システム統括部長として担当し各支店に配備したが、手描きの自由設計に慣れた第一線設計部門のCAD化と部材の工場生産化のための生産部門との整合性に苦しんだ苦い経験もあったが、少し早すぎたために大きなエネルギーを投入せざるを得なかった苦労があった。
・防錆性能の向上を考えてステンレス鋼板で独自の歯形よる、接合用ネイルプレートの開発(北米には鉄板の物しかない)大臣認定取得(1987)
・在来木造に比べて床剛性が強いことを考えて枠組壁工法による免震住宅の開発(1989)
これは坂本功先生にご指導を頂き、多分その時点では世界で始めてのツーバイフォー免震住宅の実大実験を、千葉の東大生産研で行った。続いて伊豆高原に住宅用小型免震装置の開発を担当したオイレス工業の社員寮を免震住宅第一号として建設したが、タイミングよく伊豆沖地震に遭遇し建物に加わる地震力が1/3に減衰したデーターを確認することが出来た。
・ ツーバイフォー工法の工場生産化(1991)
1987年住宅着工棟数は1,720,000戸を超え、住宅業界は着工遅れ、工期遅延が続出した。この時期に技術部門統括の衝にあり、施工部門の体制強化に苦慮した。
当時の故坪井 東三井ホーム会長からは、このままでは大型工務店の延長であり、生産体制の工業化を図るべきだと事あるごとに言われた。
1993年にわが国最大のツーバイフォーパネル化の三井ホームコンポーネント埼玉工場が稼動開始したが、ツーバイフォー工法は現場でも工場でも造られるパネルの形状は同じといった合理的な工法であるが、現場生産が合理化されている分、それ故に工場生産の付加価値を如何につけるかが工場生産パネル化開発の課題であった。
工場を造るからには、生産分岐点まではコンスタントに工場にオーダーを流せる全社的なバックアップ体制の構築が重要である。
また、パネル化するために技術基準をクリアーする大臣認定の取得も急がれた。
私としては永大ハウス末期の工場生産パネルの滞貨が脳裏をよぎり、工業化住宅開発の長年の経験を有していながら、パネル化開発への提案に踏切ることが遅れバブル期に間に合わなかった悔いが残る結果となった。
技術と営業は住宅産業にとって車の両輪で、まず営業力が先行しないと会社がうまく回らないのは今日も同じである。
・ (株)ユーアンドエー研究所の創設(1988)
三井ホームは西欧様式のデザインを本格的に自社の商品開発に持ち込んで、住宅デザインに洋風デザインの流れを作ったが、規模の拡大と共に各支店に地域の若手設計事務所を設計コンサルタントとして組織化して協力体制を作った。そして営業と設計コンサルタントの結びつきで質の高い注文住宅を供給しブランドを確立した。
しかし、量的な拡大と共に社内の設計担当者は自ら設計に携わることがなく、マネージメントに追われるようになり、設計技術の空洞化が危惧されるようになった。そこで、私が設計部長のときに社外に設計事務所を設立して、外部からも三井ホームの人事に拘束されないプロパーの設計者を採用育成し、ここに三井ホームの若手を毎年出向させ実技を習得させ、人事ローテーションをすることを提案した。
提案者が経営責任を持てということで、ユーアンドエー研究所社長を兼務して設計事務所経営に当たることになった。別会社の厳しさをつぶさに味わったが、毎年の三井ホームの設計コンペでは常に上位入選を果たし、外部のコンペでも連続して一席に入選をする等実力が付いてきた。
他社と競合する中で、独自に営業設計プレゼンテーション手法を試行錯誤の中で作り上げていったが、これも大きな力になった。
しかし、経営は中々軌道に乗らず苦慮したが、3年目に長崎のハウステンボスの入り口に導入部の役割をしている、「ワッセナー」とよばれるオランダ風の家並みを連ねたプライベートハーバー付き別荘群150戸の半分を三井ホーム九州支店が受注し、これの設計を全棟受注して全力投球した結果黒字転換を果たした。
はじめ、三井ホームから5名の社員を引き連れて創業した設計事務所が、現在は(株)三井ホームデザイン研究所と改称して50名を越える陣容で全国的に三井ホームの支店所在地に展開している。
ユーアンドエーの事業は、私にとって設計者としての原点に立ち返る仕事であり、現在でも得がたい貴重な経験であった。
・ 阪神・淡路大震災の体験
1995年1月17日の阪神淡路大震災では10万302棟の住家が全壊したが、当該地に
建っていた8,948戸のツーバイフォー工法の建物は1件も全半壊はなかった。(日本ツーバイフォー協会調査)真に過酷な試練に耐えて耐震性が実証された訳だが、後半生をこれに賭けて良かったという思いに満たされた。技術者生命をかけた甲斐があったという結果を見ることが出来たことも、幸せなことではないか。
・ 建築技術支援協会設立に参画
1998年の春先、三井ホーム(株)顧問として在職中に東京大学松村秀一先生からNPO法人建築技術支援協会設立の構想をうかがい、住宅業界の盟友で未だ現職であった滝沢清治(大和ハウス(株)理事)福本雅嗣(住友林業(株)理事・技師長)両氏を誘いこれに参加して今日に至つた。これは第三の転機というべきであろう。
「往時茫々」という言葉がある。
ツーバイフォー工法がオープン化された当時は、工法の持つ合理性とか、材料供給・施工体制の革新性に引かれて、これさえやれば自社の経営改革が出来るとばら色の夢を抱いて参入する若手経営者が相次いだ。しかし、今それらの各社は殆ど姿を消してしまった。
CSを疎かにしてイデオロギーや技術だけでは生き残れない、エンドユーザーが顧客の住宅産業の難しさであろう。
この五十年余を振り返ると、住宅産業の揺籃期に設計事務所から転職して、以後つねに時代に半歩か一歩か先んじて技術開発のリーダーとして、業界の先陣を走るポジションに身をおくことが出来たことは、技術者として真に幸せであったと思う。これまで、私を導き支えてくださった多くの方々に心から感謝を申し上げたい。
おわりに、若き日から今日まで50年近く労苦を共にし、私を支えてくれた妻の聖子に感謝しその労をねぎらいたいと思う。(私たち夫婦は来年が金婚式である。)
私は本年77歳を迎えたが、次の言葉を今一度かみしめている。
「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・目標を目指してひたすら走ることです。」 新約聖書フィリピの信徒への手紙3章より。
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