昭和45年頃と思うが、永大ハウスFC型ED型と順調に開発を進めてきた中に、深尾 茂会長から一般需要者が総額100万円台で買えるような住宅を開発せよと厳命が下った。
当時でも住宅の価格は500~1000万円はしていたので、これはかなり至難な業である。 そこで、屋根パネル・内外壁共仕上げられプレハブ化率が非常に高く、コストも低い勉強部屋のパネル部材等をグレードアップして、構造評定をうけ38条の特認を取得した。 CA型「春風」とネーミングして、15坪の2LDKで180万円くらいで発表したところセンセーションを巻き起こしマスコミ等の取材が相次いだ。「春風」開発をテーマに、当時は新進気鋭の若手ジャーナリストであった内橋克人氏とも対談したことがある。 この様に次々とプレハブ開発を推進する傍ら、「昔取った杵柄」で永大産業の東京のクラブ、深尾会長の芦屋の本宅(敷地400坪建坪150坪RC造)、東京宅等の設計を次々に手掛け、会長の人柄に直接ふれることができたことがチャンスになったのか、昭和49年中途採用入社7年目にして、予想もしなかった取締役に抜擢された。 この頃、積水ハウスの開発に居られた関口 健氏(東大建築科卒)が新たな接合部の発想をいだいて永大に入社され、これを契機に鉄骨プレハブの開発を始め、白い鉄骨の家GS型「新富士」として商品開発を行った。 当時の鉄鋼系プレハブの防錆処理は黒っぽい焼付け塗装であったが、当時他社でやっていない溶融亜鉛めっきを売り物に「白い鉄骨の家」が誕生した。後に永大倒産後、更生会社の社長になられた方が「白い鉄骨」は鉄を取れば白骨になり縁起が悪いので使用まかりならんといわれ憮然としたことがある。 昭和46年のオイルショック後欠陥プレハブ問題が起こり、工業化住宅認定制度を契機に大手プレハブ各社に伍して、本社内に総合的な建築実験所を建設、反力壁を備えた2階建て実大構造実験設備、ルームサイズの音響実験、動圧透水装置等を備え、建材の実験所とともに総合的な研究施設が出来上がった。 次に究極のプレハブを目指して、鉄骨プレハブの開発ノウハウと木質耐力壁パネルを組み合わせて、ユニット住宅の開発に取り掛かり、栃木県小山市に30,000坪の広大な敷地に、三次元の多点自動溶接装置等を備えた長大な生産ラインを持つユニットハウス工場を建設し生産を開始した。 今にして思う反省は、このように勢いに任せて次々に技術開発を成功させても、営業力も併せて強化できないと、工場は設備投資も回収できず赤字が急速に拡大してしまうことである。会社はユニット事業部を新設したが営業マンを急激に増強できず結局30人ぐらいの営業しか配属できないで、小山のユニットハウス工場も100棟あまりを生産したところで、終末を迎えることになってしまった。 永大における最後の開発はNBK 型で、枠組壁工法のノウハウを取り入れて、それまで平屋建であったBK型の耐力パネルと2×4工法の水平構面を組み合わせて、プレハブ化率の高いパネル構造の開発を行い38条認定を取得し、2階建木質プレハブ「新若葉」として売り出した。 このNBK型はプレハブとしての完成度も高く、将来の発展性もある開発であったと思っているが、時既に遅く退勢を立て直す決定打にはならなかった。 会社は時価発行で獲得した膨大な資金で積極的に建材工場・ハウス工場などの新設等を行い積極策に出たが、オイルショック後これが裏目に出て、遂に昭和53年春倒産し会社更生法を申請するにいたった。 私は、東京駐在の担当役員として、建設省・通産省等の主務官庁の指導を受けながら、消費者対策、工事中現場の完工対策、債権者対策等に忙殺された。 当時は、大蔵省をはじめ主務官庁の指導もあり、住宅の契約者に被害が及ぶことに関しては万全の対策がなされ、メインバンクの大和銀行も完工対策とAMについては、資金のバックアップが優先的になされたので、顧客に対しては大きな被害を及ぼすことなく終戦処理をしてゆくことが出来た。 会社は、本業の建材部門に集約し、プレハブ住宅部門は整理されることになった。 この間、昭和53年12月(社)日本ツーバイフォー建築協会と建設省建築研究所の共同研究により浦安市舞浜(現在の東京デヅニーランド敷地)に枠組壁工法小屋裏利用3階建タウンハウスの実大構造実験並びに火災実験を協会技術開発部会長として推進し、長屋建の隣戸に全く延焼しないという、3階建ツーバイフォー工法の構造安全と木造としては驚異的な防火性能を実証した。 そして、永大ハウスの業務整理の道筋がついた昭和54年2月、ツーバイフォー専業の設立5年目の三井ホーム(株)に迎えられ、同年6月取締役開発技術部長として、ツーバイフォー工法専業の後半生がスタートした。 [忘れえぬ方々] 私が今日あるためには、ご指導いただいた先生方、サポートしてくれたパートナーや部下の人々等を忘れることは出来ない。 杉山英男先生(東京大学名誉教授)には、手取り足取りで木質壁構造の基本から教えていただいた。永大産業での木質プレハブ・ED工法の開発から、三井ホームでのツーバイフォー工法の導入時から今日まで、民間の弟子を自認しているが、終生の恩師である。 山井良三郎先生(元農水省森林総合研究所次長)には林業試験場が目黒に在った時代から、木質パネルのせん断耐力実験からはじまり、今日まで終始変わらぬご指導とご厚誼をいただいている。 小倉武夫先生(元林業試験場木材部長・永大産業常務取締役研究所長)には、それまで設計事務所時代に合板のことをベニヤと仕様書に記入していた程度の知識しかなかった私に、構造用合板の強さと将来性を徹底的に叩き込んでいただいた。 その他多くの木質構造の先生方には同志的なつながりでご指導をいただいたことを感謝申し上げたい。 また、仕事の上のパートナーといては、私より12歳若いが、私が永大産業に入社した当初から大阪が初めての私を迎え入れて、開発に当たっては若い所員の陣頭に立ち叱咤激励して、常に開発目標を完遂してくれた藤井良隆氏(私の後任の元三井ホーム(株)常務取締役)を忘れることは出来ない。私が三井ホームに入社した後、永大で果たせなかった夢を東京で実現しょうと、根っからの大阪っ子の氏を誘った。私が企画したものを藤井氏が実体化するといった最良のパートナー関係は永大から三井ホームとその後30年にわたって続けられた。 また、私の三井ホーム入社後、有能な若手が10名くらい永大の研究所から三井ホームへ入社したが、長い間私を支えてくれた学校の後輩の河合誠氏(三井ホーム(株)技術開発グループ長)はじめ多くの部下の方々の協力があって、はじめて成し遂げられたことが殆んどで、人間一人では何事もなしえないことを痛感している。心から感謝申し上げたい。 [昭和53年12月 浦安舞浜 ツーバイフォー小屋裏利用タウンハウス3階建実大火災実験] |