「私の住宅五十年史(2)」・・・・ 阿部市郎

 昭和27年ごろであったと思うが、勤務先の遠藤建設の業務が段々拡張し、世田谷区の塚戸小学校の校舎増築工事を落札した。当時は木造2階建で基礎は鉄筋コンクリート布基礎、柱は杉5寸角、2階梁は1尺5寸の米松梁2丁合せの合成梁、屋根は木製トラス、日本瓦葺、外壁は木の西洋下見板張り、内部も床はブナフローリング張り、壁は木製腰羽目、上部は木摺り下地漆喰塗り、天井はシナ合板格天井、階段はナラの厚板で、今から見ると懐かしい貴重な材料の数々である。
 着工前はトラック数十台分の構造材が校庭に山積みされ壮観であったが、近所の家の庭に同じような材木が積まれていると警察から連絡があり調べたところ台八車に2~3台分くらい盗まれているのがわかった。あまり大量に野積みしてあったのでまったく気が付かず注意を受けた。
 この後、29年ごろまでに学校工事が続き東京都伊豆大島元町第一中学校、同じく差木地小学校の木造校舎新築工事で2年間大島通いをした。この時は基礎工事のコンクリートの骨材も砂利は山から砕石が採れるが砂は海砂しかないので、砂から構造材に至るまで全て東京から気帆船で運び輸送には苦労した。先年40年ぶりに大島を訪れたが、既に両校ともRCに建替えられていた。
 この頃は、これらの官公庁工事と併行して民間工事も世田谷界隈で数多くやっており、砧の東宝映画撮影所にも出入りして、映画「三等重役」の鈴木英夫監督邸新築や「ゴジラ」の本多猪四郎監督邸増築を手掛け、成城のマキノ雅弘監督の豪邸の増改築の時には、まだ少年だった長門浩之や津川雅彦が庭で水遊びをしていた光景を思い出す。有馬稲子や司葉子がデビュー当時でよくスタジオの撮影を覗かせてもらった。
 世田谷区赤堤の梅田邸では3年がかりの本格的な木造住宅で基礎は布基礎の猫土台で構造体は尾鷲の総桧で4寸柱、離れは面皮の3寸5分、造作は敷居は桜、鴨居長押その他は秋田杉柾、天井は1尺5寸幅秋田の中杢、広縁の床は尾州桧の縁甲板、天井は杉柾の木小舞、床の間の床柱は北山杉の天然絞りの磨き丸太(時価なら2〜3百万円するであろう)、広縁の軒桁は5間通しの磨き丸太を使った。屋根は三州の日本瓦本磨き一文字瓦葺きで腰葺きと広縁の屋根は銅板平葺き、内壁は京壁であったが、まず荒壁で半年その上に中塗りで一年おいて三年目にようやく上塗りをして完成した。
 建具も尾州桧の柾で縁側の引き戸は一枚ガラスで框に直に隅丸の加工をする贅沢なものだった。(隅丸は一隅いくらという加工賃をとられる)ワックスなどは一切使わず、さらしの木綿袋に豆腐のおからを入れて、柱から床に至るまで一生懸命磨いた。大工さんも名人肌で足袋に草履で一人でこつこつと3年がかりで仕上げた。その後これだけの時間と職人技をかけた住宅にたずさわったことがない。このころは会社も社員がふえ、若干二十歳代後半で経営に携わるようになっていたが、これも良い経験をしたと思っている。
 この頃は未だアルミサッシは出現せずアパートなどの安普請のときは既製品の木製建具を使用した。新宿2丁目に妙見屋という大きな既製建具の店がありよく買いに行ったが、これが今をときめく東洋サッシの前身である。昭和30年か31年ごろだと思うが、不二サッシからはじめて住宅用のアルミサッシが発売され、はじめは高級品扱いであった。
 住宅用断熱材が市場に出回るようになったのはさらに数年後であったと思う。
 28歳位から3年間家に戻って家業を継ぐべく設計から現場管理まで一人で抱え込んだが、一時的にどっと仕事が入ってきて昼間は10カ所位の現場を管理して資材から職人の手配までやり、夜は設計から見積もりときりきり舞いをしたが締めてみると赤字であった。
 これは、家の従来の顧客と自分の関係と両方でボリュームが増えたのだが、能力オーバーでボロボロと管理ミスがでてきて、クレームになる・・・値引きさせられる等、悪循環に陥っていることを思い知らされた。しかも、30歳過ぎて現場に追われていると、二級建築士はもっていても中々一級建築士の試験を受ける気にならず、また、木造ばかりでRCやS造の経験が出来ないので、遂に家業から撤退して基本から勉強しなおすことを決意して、昭和34年、32歳の時に(株)東久世建築設計事務所に入社した。
 事務所は所員8名のこじんまりした事務所だが所長の東久世秀禧先生は東工大卒の元子爵で学習院校舎や保険会社の支社事務所など仕事は安定していたので、RC造の設計などをじっくりと修行することが出来た。都合7年間お世話になったがその間に目出度く1級建築士に合格した。
 この間に設計を担当した記憶に残る建物は、学習院女子短大校舎、箱根仙石原仙郷楼本館、東邦生命青森支社、盛岡支社ビル、成女学園校舎、その他数多くあるが、サービス仕事で木造住宅などあると、若い所員は木造の詳細が描けないのでもっぱら私が図面を書いた。今にして思えば人間は忙しく立ち働くことは必要だが、じっくりと自分の技量を蓄積する時期も必要であると思う。
 東久世先生はもう90歳を過ぎておられるがご壮健で、今でも毎年先生を囲んで旧交を温めている。
 昭和41年秋、永大産業(株)で木質プレハブ永大ハウスの開発技術者を新聞公募したのに応募した。当時は住宅の大量供給が叫ばれ始めた黎明期で、プレハブの知識は皆無であったが、自分の技術者人生の後半をこれに賭けて見ようと決意して、事務所での仕事を整理して円満退社し、昭和42年8月1日とりあえず単身で大阪の永大産業(株)本社、ハウス団地事業部設計室に出社した。
 当時の永大産業は日本一の合板会社で一部上場の急成長の猛烈会社であり、大和ハウスのミゼットハウスとともに永大の勉強部屋でも有名であった。まともな住宅としては平屋建木質プレハブの永大ハウスB型BK型が建設大臣の38条特認を得て住宅公庫の承認住宅として売り出されていた。
 これは完全な木質壁パネル構造で耐力パネルはフレキ合板(フレキシブルボードとタイプ1合板を一体に接着したもの)を木製フレームにレゾルシノールで熱圧締したパネルで(壁倍率1.5倍)外壁下地も兼ねたストレススキンパネルで耐力壁以外に開口部組み込みパネル・屋根パネル等も用意された、プレハブ化率の高い平屋建工場生産住宅であった。
 他社の状況としては、平屋のプレハブから2階建への移行期で、鉄鋼系の積水ハウス2B型、大和ハウス2階建、木質系プレハブでは、ミサワホームが大屋根のデザインで売り出しており、永大も平屋建から2階建の木質プレハブの開発が焦眉の急であった。
 永大はもともと合板建材で大をなした会社で、建築技術者が少なく、大阪府の住宅供給公社出身の設計部長や課長がいたのだが、猛烈会社で座り心地があまりよくない会社なので私が入社したときは既に退社され、若い技術者諸君が東京の設計事務所出身のベテランが来るということで待っていた。
 永大産業の社是は「頭を使って知恵を出せ、知恵の出ないものは汗を出せ、知恵も汗も出ないものは静かに去れ」で、組合と協定を結び祭日も休まず増産に告ぐ増産で、本社には大阪弁が飛び交い、生粋の江戸っ子の私にはかなり異質の世界であった。
 強烈なカルチャーショックを受けて、どうもこれは入るところを誤ったのではないかと思い、(当時、三菱建設(株)設計部の中途採用にも合格していた)2週間目にハウス事業部長の専務に辞意を伝えたところ強烈に引き止められ、期待して待っていた若い技術者諸君のためにも残ってくれと説得され、腹を固め辞意を撤回した。もしも、あのときに辞めていたら今日の私はなく、一介の設計マンで終わっていたかもしれない。この時が後半の人生の重大な岐路であったと思うのである。
 自分の全人格と技術を持って信義に答えることの重要性を後半の人生の柱としてこの時から今日まで貫くことが出来たのは幸いであった。
 精神的に立ち直ってまず最初に取り掛かったのは、営業的に他社との競合上急がれた、2階建木質プレハブの開発である。しかしこの頃はまだ木質プレハブの壁構造を十分勉強していないため、木造軸組みに合板を張った壁パネルを嵌め込み釘で止めるような折衷型で、プロトデザインは大屋根のデザインで商品開発をして埼玉県大宮に第一号のモデルハウスを建設した。建設大臣の38条認定を要しない通常の木造の確認申請で建築できるようなもので、今から考えるととてもプレハブとは言えないような中途半端な商品であった。
 そこで引き続き耐力壁やジョイント金物の開発に取り組む本格的な2階建木質プレハブの開発に取り組むことになった。これは隅角部やT字型の間仕切壁の接合部に柱を使いその間に合板接着耐力パネル(厚5.5mmのタイプ1合板を木製フレームにレゾルシノール接着剤で熱圧締した工場生産パネル)を嵌め込んだ構造で、当時の壁の剪断耐力試験は下部を緊結して上部はフリーにして水平力を加力するような試験であったので土台と柱と耐力パネルを一体にボルトで緊結できる接合金物を開発して壁倍率3の耐力を得られるようにした。これが永大産業に入社して初めて取り組んだ本格的木質プレハブで、永大ハウスFC型として(財)日本建築センターの構造評定を経て建設大臣の第38条特認を取得したもので始めてのヒット商品になった。
東久世建築設計事務所時代
箱根仙郷楼本館落成披露