自分史:「私の住宅五十年史(1)」・・・阿部市郎

 昭和22年に学校を卒業して、社会にでてから57年になる。その間ジェネコン設計部、設計事務所でのオフイス、学校等の設計経験を除いてもかれこれ50年近くを住宅建設に携わってきたことになる。今考えるとあっという間の50年であったような気がするが、ここいらで総括するのも悪くないかなと思い、記憶の糸をたどることにした。
 戦前の我が家は京橋区新舟松(しんふなまつ)町、その後町名変更で中央区越前堀一丁目(現在は新川一丁目)にあった。間口3間と1.5尺、奥行き6間の総2階一部3階の町屋で、通りに面した部分は4坪程度の土間で仕事場になっていた。
 父は大工の棟梁で阿部工務店を営んでいて、私は長男で当然家業を継がなければならないと考えていた。
 我が家を出ると直ぐに隅田川で、勝鬨橋が出来るまでは東京湾汽船(現東海汽船)の発着所になっていて、伊豆七島通いの汽船の波止場で通りには回船問屋の倉庫と旅館が並び、機帆船や艀が舫っていた。
 川向こうは佃島で、近くに佃の渡しが行き来して正に江戸情緒の残る下町である。家には常時数人の弟子と職人が住み込んでいたので、これらの職人さんの中で育ったようなものである。
 父は跡を継がせるつもりだったので、高工時代から顧客の図面や見積もりの作成などをやらされ、木場への木材の買い付けの時などに連れて行かれて、取引の符丁などを覚えさせられた。
 私が幼いころは、近所に工事現場があると上棟式の後、「棟梁送り」といって棟梁の親父を中にとび職の頭を先頭に木遣りを唄いながら、檜の4寸角に五色のさらしをたらした幣輿を担いで、職方一同が現場から家まで行列を作って送ってきた。晴れがましい父親の姿を見て子供心に棟梁というのは案外偉いんだなあと印象つけられた。
 因みに、後年この幣輿ずくりは、上棟のたびに跡継ぎの私の仕事になったが、この作り方は私の記憶の中では、無節の十尺柱の3寸5分か4寸角の頂部を方形にけずり、墨壺で差し金の幅(5分)を使って七五三の帯を四面に引き・白・黄・赤・緑・紫の五色のさらしをたらし、頂部に扇を取り付け、奉書か西の内の和紙を切って御幣をつくり、麻の苧とともに頂部からたらし、中ほどに奉書を巻き紅白の水引をかけ、幣輿の下部には何月何日建之と墨で書き入れる。小規模の住宅ではこれの小型版を作ったが、上棟完了時に棟に取り付け、野地板張り時に小屋の棟に取り付ける。
 上棟の前の幣輿づくりは結構晴れがましいものである。
親父の仕事は柱などが普通より一回り大きいのが自慢で、4寸角が多かった。残念なことにお客さんは下町の株屋さんや商店などが多く戦災で殆んどが焼失してしまつた。
 余談だが、昭和20年3月10日の大空襲で我が家が燃え落ちてゆくのを、熱風吹きすさぶ隅田川上の艀から終始見とどけたが、大規模火災になると上昇気流に烈風が吹き込んで、台風のような熱風が吹き荒れ、一軒毎でなく一ブロック毎に延焼着火して瞬時にフラッシュオーバーになる状況で、生命の危険を感じその記憶は今も鮮烈である。
 その後の、転居先も焼きだされ、焼け跡に焼けトタンや防空壕の残材でバラックを建てて雨露を凌いだ。父は丸太から挽きたてるのが好きで木場の堀に大量の原木を貯木していたが、これが流失してしまい、連日探したが堀は空襲の犠牲者の遺骸が多く浮かび、遂に諦めてしまった。このことは、父にとって我が家の焼失とともに精神的にも大きな痛手となった。
 学校を卒業して当時は西銀座に本社があった株木建設(株)設計部に就職が決まったが、父は跡を継がせるつもりなので、うんといわず、ちょうど3月から始まる近所の旅館の新築工事を一軒、職人と一緒に仕上げることを条件に漸く承諾をえて、株木建設にも出社遅延を了承してもらった。
 職人と一緒に柱や造作のかんな削り、鑿を使ってのほぞ孔掘り、丸太の足場組、当時は土壁全盛なので荒壁の小舞かきなど、一通りやらされた。職人の中で育ったので、雨の日には鋸の目立てや鉋や鑿の砥ぎなど道具の下拵えも職人から教えてもらった。後年住宅の設計や現場管理をするようになって、この経験は良かったと実感している。
 株木建設設計部では当時盛んだった米軍住宅の施工図や特別調達庁に提出する積算書の作成に連日泊り込みで追いまくられた。当時の積算は図面を見ながら手動計算機をガラガラチーンとまわしての計算か算盤パチパチで大変な作業であった。
 2年たって、直接現場に接したくなり、世田谷の遠藤建設(株)という東京都や区の仕事を取っている会社に移った。丁度、世田谷区弦巻町の都営住宅(木造平屋建40棟)を受注して、工事管理者を求めていたところで、入社早々からこれの着工準備に入った。昭和24年の春先のことである。
当時は未だ建設資材は統制時代で公共工事は優先的に割り当て切符が貰えた。資材を運搬するトラックのガソリンも割り当てであった。
セメント、木材等も指定された倉庫までトラックをチャーターしてすべて自分で助手台に搭乗して運んだ。柱・梁等の構造材は木場の三井物産の木材集積場まで取りにいったが、戦時中に軍用で乱伐された秋田杉の赤身の心去の角材が土場に野積みされて、白太の部分など既に一部ふけているものもあった。今にして思えば造作材にも使える無垢の赤身の柾でマグロ並みの貴重品であり、再生産できない天然資材を返す返すももったいない使い方をしたものと思う。
 当時でも、あまりにもったいないので、特に良い柾材は倉庫に保管して、単価の良い現場の造作材に転用してしまった。
 現場は平屋2戸建の和室3室と台所・便所・浴室で柱は三寸三分角、屋根は和型セメント瓦、壁は土壁漆喰塗、外壁は押し縁下見板張で秋田杉の四分板(呼称寸法で実厚は2分3厘しかない)、基礎は勿論無筋コンクリートで割栗石つき固め捨てコンクリート打ち布基礎で平屋なのでフーチングはなかったように思う。
 浴室の浴槽は杉・さわらの小判型の直焚き、台所は未だ公団型等は存在しないので、流しとガス台は人造石研ぎ出し、便所は和風便器汲み取りであった。
 造作も秋田杉、襖は秋田杉柾生地縁に新鳥の子紙綺羅もみ、建具の窓障子も秋田杉で、つくづく、あの頃は秋田杉がまだまだ豊富な時代であったと思う。
 ひとたび失われた自然と環境の再建が極めて困難であること思うと、皆で環境保護に注力しないと「後悔先に立たず」である。
 大工の息子の私にとって技術的に難しいことは何もなかったが、現場工事管理をしつつ隔日位に大手町にあった東京都建設局の担当官に現場報告書を提出に通った。
当時、法律171号というのがあって、公共工事は公定価格で積算され、現実の工賃と大きな乖離があった。現場の出面と工事費請求に関係のある現場報告書の工数を調整するのが大変だった。連日夜遅くまで現実と報告との帳面合わせに追われた。
 当時の都の工事監理担当者が後年北多摩地方事務所の建築主事になり、東京都で初めてのツーバイフォータウンハウスの建築確認などでお世話になったのは、奇遇であった。
 会社は工業学校を卒業したばかりの若い部下が一人いるだけで、営業から設計工事管理集金とすべての業務をこなし、都営住宅の現場をみながら、一般顧客の住宅や店舗も次々に建てた。当時の世田谷界隈はメインストリートから一歩はいれば一面の畑で、昭和24・5年頃は未だ土地も安く住宅も平屋が多かったので、畑を簡単に地均しして根伐をして割栗を手たこで突き固め、一尺×三尺厚み4寸のコンクリートブロック又は大谷石をトントンと据えて目地のところにセメントを流し、隅角部に近い目地のところにアンカーボルトを差し込むといった、簡単な基礎が多かった。
 平屋建ての構造躯体は柱・土台・桁は三三(10cm)角、小屋は母屋・束は三寸、床の大引きも同寸、小屋梁は松丸太(4.5寸〜5寸)、筋かいは大貫(厚み五分)、荒壁下地の貫も通し貫はまずなくて深さ15mmくらいの貫穴を鑿で掘って差し込んで斜め釘打ちで留めた。父からは貫穴に楔締めするように教わったが、これも現場で口うるさく言わないと中々職人は面倒くさがってやらなかった。筋かい端部も釘3本打ちで留める程度なので、耐震的にも耐風的にもまことにお粗末であった。
〔閑話休題〕
 父から教わった材木屋の数字の符丁は、自分で工事管理をし材木の買い付けをするようになってから、年は若くてもプロだぞとばかり価格交渉などの際に盛んに使った。
ホン=1、ロ=2、ツ=3、ソ=4、レ=5、タ=6、ヨ=7、ヤマ=8、キ=9、
*生まれ育った我が家(間取り図参照)
 昭和初期の下町の典型的な職人の家だと思う。構造体はベイマツ外壁は正面のみパラペットのある御影石洗い出し、側面はトタン小波板、屋根はトタン板平葺コールタール塗、雨の日は狭い仕事場で下拵えや道具の手入れを職人がしていた。職人たちがドカ弁を持って現場に行くので台所には竈があり三升釜で炊飯していた。
 両隣は酒屋と魚屋で前は銭湯「松の湯」通り筋は指物師・仕立て屋・鍛冶屋・ブリキや・惣菜や・駄菓子や・印刷屋・万年筆屋など軒を連ねていた。



阿部工務店平面図