私の住まい・・・・・浅野忠利
●私の住居暦は、生まれ育ってから結婚までの戸建住宅の時期と、結婚してからの集合住宅時代の二つに分けられる。その中に割って入るように、二つの攪乱要因がある。学習院高等科での常陸宮殿下との寮生活と結婚直後の西ドイツの住生活である。
●戸建住宅の遍歴では7つの住いを経験した。その終着駅は、大田区田園調布の住いで、独身最後の7年間を過ごした。昨年母が他界するまで住んでおり、これからは息子(母の孫)の世代が住むことになる。
●1965年の結婚後、2年間のドイツでの生活をのぞいて、いわゆる公団住宅に8年間(2箇所)、タウンハウスに32年間と40年間集合住宅に住み続けて現在に至っている。
●今日の主題は二つの攪乱要因である。学習院の中等科から高等科に進むに当たって、先生から薦められ、常陸宮殿下との寮生活を経験した。不思議な寮で、土日に帰るところを確保しつつの一年間の寮生活となった。私にとって初めての社会的集団生活で、小泉信三先生の人柄にも触れつつ、国家存立の基盤を含め数限りないことを知るよい機会となった。
●ドイツ生活では2つの面白い住まいを経験した。バウハウスの学生であったmax bill の設計した学生寮と400年前の農家である。学生寮は単身者用と既婚者用の2種類が用意され、両方に住んだが、特に既婚者用が優れものであった。傾斜地を利用して中2階に寝室のあるワンルームで、夫婦最高の住み心地を味わった。400年前の農家は女流画家が買い取り、自ら日曜大工で改装した驚くほど不具合の多い広い家で、全体の1/3程度4部屋だけを使った。広い厨房に、整備費前払いのkautionという制度を使って、浴槽とボイラーを設置したが、このボイラーの能力は欧州温度の二人分、日本温度の一人分で、家内と一緒に入り、二人で顔・体・足と同じところを洗うようにした。ドイツの居住空間はごく簡素だが、どのような住まい方をも吸収して、豊かな生活を生み出す玉手箱だと実感した。
●70歳を超える現在、軽井沢に、アトリエ付の生活の場を作っている。多少の人育ての可能性を見ながら、蝶の生活を探求し、絵を描き、もの創りとキリスト教信仰について考えたいと願っています。
住まいの記憶・・・・・石井嘉昭
この世に生を享けてこの方、住まいとの関りを振り返ってみると、「住まいの記憶」とは自分史であります。目を覚ました時庭木の間から柔らかい光が降り注いでいました。縁側のある6畳の畳の上に一人で寝かされていました。周りを見渡しても誰も居ない。とても悲しくなり大声で泣きだしました。両親は畑仕事に出かけていました。この家に七つまで住んでいました。父親は戦時中福岡県にあった大刀洗飛行場の変電所に電気技師と働いていました。昭和20年3月、米軍機の空襲により、大刀洗飛行場は徹底的に破壊し尽くされ終戦を迎えました。幸い社宅は火災を免れ戦後も二軒長屋に住んでいました。北側に玄関があり土間の台所には竈がありました。隣人と共同の井戸と風呂場が別棟で敷地の北側にあり、ふた家族が互いに譲り合いながら生活をしていました。
戦後会社を辞めた父はわずかな農地を求め、にわか百姓を始めました。親子四人が飢えをしのいでいました。そのうち農地のそばに家を建てました。平屋のバラック建の家でしたが、棟上の時には餅撒きをしました。近所の人がたくさん来てくれたのでとても嬉しくなりました。二つ目の住まいです。この後「住い遍歴」が始まるわけですが、余曲折を経て15歳の時に公団住宅に抽選で入居できました。真新しい鉄筋コンクリート造りのアパートは、ダイニングキッチンがあり、食卓がテーブルになり椅子の生活が始まりました。快適な洋風生活が出来ることが誇らしくもありました。
家族との生活に終わりを告げて、就職して寮に入りましたが、昭和40年代の初めごろで6畳一間の部屋に二人が生活をするという極限の状態でした。寮に帰るのがいやで、毎日のように飲んでいました。先輩が出て行き新人が入ってきましたが、新人も夜遅くそっと帰ってきていました。こんな生活には耐えられないと、結婚して2LDKの宿舎に住むことになりました。新しい家族との住まいの歴史の始まりです。平均して2年ごとに、東京、大阪、広島、福岡と職場を転々として、十数年の単身赴任をしていましたので、子育てもせず住まいの思いでも希薄です。現在は築30年を越えたマンションで独居老人として、気楽な生活をしています。この後どうなるのだろうか。
建物の基本性能の大切さ・・・・・伊東俊彦
私は昭和18年、太平洋戦争の真っ只中に東京の小松川で生まれた。結婚するまでの27年間過ごした家は、父が経営する町工場の敷地の一角にあり、9人の大家族で従業員も出入りするような開放的な家であった。当時としてはしっかりとした和風建築で、季節ごとの使い分けの出来る過ごしやすい家でもあった。
結婚を機に、幕張の松林が点在する父の土地を譲り受け、15坪の平屋の家を建てている。仮設的な意味合いもあって、深く考えずに造った家は雨が降るたびに砂が流れ、10年後には基礎にクラックが入り、一部のサッシュが開閉できなくなるほどになってしまった。その反省を踏まえて建て直した家は、延べ45坪ほどの2階建てであるが、ツーバイフォーを採用し、1階をコンクリートスラブとした。約30年経過した今も、外装のスタッコはヘアークラックすらない完全な状態を保っている。
建設当時、いくつかの方針を立てている。一つは前述の構造であり、もう一つは設備屋でありながら冷暖房が嫌いで、なるべく大げさな設備は避けようと考えていた。そのため、コンクリートスラブ部を含め、壁、屋根には当時としては珍しく100mmの断熱を施し、冬は電気の床暖房、夏は通風と防犯を兼ねたガラリ雨戸としている。猛暑でも通風による冷却効果で、冷房の不要な快適な夜を過ごしている。年間を通して床版の蓄熱、輻射効果も快適さに貢献していると思われる。
建設以来、屋根の葺き替え、外装の塗装、厨房の電化など、いくつかの改修工事を行っているが、その都度簡単な記録(映像、費用など)を残すようにしている。今の建物は終の棲家として考えており、次の世代にも大事に使ってもらいたいと思っている。そのためには、建物自身の構造や省エネの基本性能をしっかりとさせ、改修時の記録をきちんと残しておくことが重要ではないかと思う。今は家族の体調も考えて、一部に個別の冷暖房を追加しているが、基本性能さえ満足していれば、改修も比較的簡単なことで済むことも実感できた。
小松川時代の日本建築の良い記憶がDNAとして生かされているのだと思う。
ボロ家の改造・・・・・小畑清治
結婚して恵比寿の借地権マンションの2DKに3年、2人目の子どもができ、大森駅前の都公社高層団地に、そして3人目の子どもが少し大きくなったので家を探した。欲しいと思った公庫融資付き民間マンションの抽選で外れ困っていた時、新聞折り込みで近所の小さな土地の売物件を見つけた。ファミリー向けマンション程度の価格であったが、「古家付き(撤去予定)」とあった。現地を見ると、セメント瓦葺き総2階の建屋で一部下屋付きとなっていたが、少し直せばそのまま住めそうに思われた。まだ若かったこともあり、建築屋の挑戦心が出てきた。家内を口説き落とし、不動産屋に掛け合うと、「撤去しなくて済むのなら、その分は値引きしましょう」との対応、ラッキーであった。よく聞くと、昭和23年に金融公庫融資で建てられたものであった。
第一種住専地区内の細分化された土地ではあったが、二項道路に面しており、私道はない。軸組に腐朽やシロアリ被害もなかったが、数年間も空家にしていたため、ほこりだらけであった。おもちゃの電機部品の町工場として使われていたようで、小さなモーターの部品などが隙間に落ちていた。近所の大工に頼んで、1階の天井・壁の内装下地の石膏ボード張りをしてもらい、ビニールクロスは自分で貼ることにした。
暮れの休みを利用し、家族の手伝いでクロス貼りをしたが、天井の施工は苦労した。もたもたしているうちに深夜になり、ちょうど貼り終わった時に、近所の寺から除夜の鐘が聞こえてきたのがとても印象に残っている。
結局、この家に5年ほど住んだが、3人の子供が幼稚園から小学校の時期であったので、今も家族皆の思い出になっている。その後建て替えた家も、20年を過ぎている。
私の住まいの記憶・・・・・杉山義孝
住宅の世界で住宅すごろくという言葉がある。アパートや小さな借家からスタートして段々居住水準をあげていき、最後に庭付き一戸建て持ち家に到達することをすごろくの上がりに喩えたものである。まだ上がりにはいたっていないが、振り返ってみると結構さまざまなタイプの住宅に住んできたものだと思う。ざっと思い返すと「戸建て住宅」、「寮」、「下宿」、「木造民間アパート」、「鉄筋中層共同住宅」、「庭付きタウンハウス」、「高層共同住宅」に住んだことになる。しかも転勤したりしているので、同じタイプの住宅に場所を替えて複数回住んだ経験があることになる。その中で印象に残っているタイプの住宅について思い出してみよう。
下宿に関しては学生時代、街中の古い一戸建ての住宅の別棟の一間を借りていた。一階に二人、二階に二人が下宿しており、ローテーションの関係で常に違う世代が集まることになり、自然と先輩後輩関係ができた。洗濯物がたまっているといつの間にか大家さんが洗濯をして、たたんだものが部屋に置いてあった。そういえば洗濯機が下宿にはなかったのだった。結婚してしばらくは民間の木造住宅アパートに住むことになった。数年間すんでいたと思うが、何しろ壁の薄い粗雑なつくりであったから、隣の家のことが筒抜けになっていた。ということはこちらの様子も隣に分かったのであろう。ある時期から隣の家の夫婦喧嘩が毎晩続くことになった。どうやら奥さんが働き出したことが原因での言い争いらしいと思われた。激しい声と音が毎晩半年ぐらいは続いたであろうか、あるとき急に静かになったのに気がついた。離婚して奥さんが出て行ったらしかった。そのうち旦那さんの姿も見かけなくなり、また私たちも転居していった。タウンハウスはコーポラティブ方式によって建設されたものであった。作るときから趣旨に賛同する人たちが集まって、コモンの設計や住棟の配置を話し合いながら作っていくのであった。住戸の内部もかなり自由に設計することができた。出来上がったコモン付のタウンハウス団地は環境もよく、相隣関係も良好でコミュニティ活動も活発であった。私は当初から長期修繕委員をやり、長期修繕を三回も実施する経験をすることになった。また区分所有法改正に伴って、団地型の管理組合規約改正も行い、苦労も多かったが地域活動もしているというそれなりの楽しさもあった。長期修繕計画を作り、自主管理的やり方の管理方式であったので、手間隙も相当にかかったが、熱心にやった方々も最近では退職した方が多くなり少し疲労がたまりかけていたところであった。長くすむつもりであったが、間取りがあまりよくなかったことと、駅から少し離れていたことなどあり、家族事情もあって、最近駅前の超高層の共同住宅に引っ越すことになった。今度はセキュリティを相当に厳しくした、管理会社に丸投げ管理の住宅である。管理組合を設立し形式的には組合管理にしているが、実態は区分所有法にある管理者管理と同じである。いっそ責任をはっきりさせる意味では管理者管理にすべきと思うが、管理会社もそこまでは踏み込まない。さてさてこれからどうなっていくかといったところである。団塊の世代が退職して、地域に定着していく中これからは住宅の管理やコミュニティ活動を中心としたタウンマネジメントが課題になってきている。戦後の高度成長を経て、大都市への移動人口が40〜50年経てようやく安定してきた地域が大都市圏にも大量に生まれている。首都圏では15〜30キロ圏でベルト地帯となって現れている。住宅地にはさまざまな居住地管理の形態があり、何が一番良いということはない選択の時代が始まった。多様な住宅形式と管理形態そして暮らしのあり方を人それぞれに見つけていくことが必要である。
寄棟総二階・・・・・筒井 勲
永らく建築界に身をおきながら残念なことに住まいに対する理想も哲学も披瀝できるようなものは無い。建築家としてではなく建築技術者としての観点、故障の少ない、メンテのし易い、ローコストの住宅と言う持論を実践したに過ぎない。
30数年前、しがないサラリーマンが一念発起して持ち家を建てようと決意して、コストの安い故障の少ない住宅のモデルとしたのが「寄棟総二階、田の字プラン」の家である。これに加えて軒の庇の出を1.0m以上とする。更に住まいは夏を凌ぐことを旨とし南北に開口部を設け風通しを良くする、これだけである。何処の住宅メーカーに聞いても当然のことであるが「寄棟総二階」は坪単価は一番安い。日本のように風雨の強いところでは長い庇が極めて有効と言う持論のため庇の出だけは特注である。
住んでみての感想は、凸凹が全く無いから確かに故障は少ない、庇が長いから汚れも少ない、風通しもまあ良い。初期の目的は達成できたようだがシンプルなデザインで味も素っ気も無い。そろそろ30数年を経過し家族構成も変化し、あちこちに老朽化による現象もみられ、リニュウーアルをするか、それとも新築するか悩んでいるところである。
私の住んできた家のこと・・・・・最上達雄
両親が結婚し東京の原宿の借家に住んで間もなく私が生まれた。小学校入学は敗戦の年であるが、5月の山の手大空襲で付近一帯は焼け野原と化した。戦後しばらくの間、千葉県の船橋ほか、不自由な間借り住いを転々とした。
昭和25年に、親戚の持っていた青山の土地の片隅に小さな家を建てさせてもらい一家が住むことになったが、これが現在住んでいる家の原点である。何回かの増改築を繰り返したといっても、元が安普請の住宅なので老朽化の進み方は早く、私が昭和40年に結婚して家を出た後、両親は家のあちこちの不具合に悩まされたと思う。それでも、自分が建てた家ということで、愛着を感じていた様子が思い出される。
昭和55年にその家を取り壊し、父と私とで二世帯住宅に建て直し、私は2階部分に住むことになった。小家族といっても、祖母から私達の二人の娘まで、4世代が同じ屋根の下に暮らすことになった。それから約30年、今では母と私たち夫婦が住んでいるだけである。
表参道からほぼ100m入ったこの場所は、子供の頃はもちろん、20年ほど前までは静かな住宅地で、交通の便が良く、住むには最高な所と思っていた。ところが今周辺の住宅は、住宅以上の価値を生むと考える人たちによって様々な用途の建物に建て替えられ、昔住んでいたほとんどの人たちは出ていってしまった。道幅4mの狭い道路に面した我が家の隣には、鉄骨に張りぼて細工で作られたインチキ大聖堂風の結婚式場ができ、賑やかな毎日である。
遠くない将来母もいなくなったら、私たち夫婦はたとえ健康であっても老人施設に移り、気楽な余生を送ることができれば良いな、と考えている。故郷とか、住み慣れた家などといった感情を持てるような環境が壊されてしまったのだから仕方がない。家そのものは、まだ当分壊れそうもないのではあるけれど。
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