海外工事に参画して
昭和35、6年頃、インドネシアでの賠償工事が戦後の海外工事の始まりではなかったろうか。その後、経済の発展・国際化とともに海外工事が大きく展開してきた。初期に携わった人々にとっては、全て始めての経験、思い出せば夢のような経験も多かったのではないだろうか。国内の建設工事が縮小している現在、海外への期待を再燃させる時期かもしれない。先駆者たる諸氏にご経験の一端を披露していただいた。

ハワイの建設業の仕組み・・・・堀井秀治
 私が初めて海外工事に参画したのは1970年、ハワイの高層ホテル建築現場である。ゼネコンの現場担当者として工事に携わって、戸惑ったのは、同じ建物を造るにも、その方法、作業の仕組みが日本とかなり違うということである。その基本は、建築工事に直接関係する施主、設計者、ゼネコン・サブコンの力関係が日本に較べてはるかに対等に近く、それぞれの役割分担がはっきりしていること、また、各種専門業種ごとにライセンス制度があって、強力な労務者ユニオンが存在することである。そこで、日本と違う工事の仕組みを以下列記してみる。
☆ 発注・入札
 入札は設計図に示された内容に対する頭金一本の競争入札が一般的であり、落札者決定後も見積を判定する内訳明細は提出されない。このことは、ゼネコンとサブコンの関係も同じである。したがって、施主・設計者の協力によってできる設計図・仕様書は最初から相当完璧なものでなければならない。また、ゼネコンと専門業者の工事分担によって、設計図からの数量積算もそれぞれ分担がはっきり分かれている。
☆ 契約
 契約は極めて重要なことで、未契約のまま着工することは有り得ないし、工事中・竣工後のトラブルを予測して、契約時から弁護士が介入することもある。特に金銭授受のトラブルに対処するため、いろいろな制度が決められている。代表的なものは次の通り。
1. Escrow account (条件付捺印証書)
 発注者ー工事人が互いに相手をよく知らない時、契約が完全に守られるように、銀行、保険会社等を第三者として介入させる制度。
2. Bid bond、Performance bond、Payment bond
 (入札保証)  (履行保証)  (支払保証)
 これらは発注者を保護するため、入札工事に際して工事業者に要求される保証金制度。
3. Mechanics Lien(先取特権)
 これは工事人(元請・下請共)を保護するもので、工事人が工事費の支払を受けられなかった場合、差し押さえに対して、一定期間内に申請をすれば、優先権を与えられるという制度。
 これらの中で、業者にとって一番問題になるのは、履行保証金である。一業者はBond会社によって決められる総Bond額によって、持ち得る総工事量が決定してしまう。この総額は無論会社によって異なるが、大ざっぱには、一業者の可動資本の10倍程度だという。
☆ 元請・下請の工事分担
 工事を一括受注しても、ゼネコンが直接実施するのは、型枠工事、コンクリート工事、雑工事、仮設工事だけで、金額としては、全体工事金の30%程度である。その他の工事は全てサブコンの責任として、外注することになる。サブコンは職種毎に専門独立化しており、必要な足場等の仮設もサブコンに含まれる。従ってゼネコンは、例えばコンクリート躯体工事が終わると足場等は全て撤去してしまう。
☆ 労務者雇用
 ゼネコンが担当する工事に必要な労務者、大工・土工はゼネコンの直備となり、職種別のレーバーユニオンで決められた時給(当時5$/hr.程度)を前提に管理し、週給で直接個人に支払うことになる。サブコンも同様であり、時給はユニオンによって決まっているので勝手に変えることはできない。
☆ 工期延長
 工期は当然、契約時に決められていて、遅延すれば罰金が課せられる。正当な理由があって工期の延長が必要な場合は、業者が請求書を提出し、認められれば、アーキテクトよりチェンジ・オーダーの形で書類で伝達される。工期延長理由としてBeyond the contractor’s controlという表現が標準仕様書で使われており、その解釈は議論の的になり易い。具体事例としては、レーバーユニオンのストライキ等も含まれる。また、ハワイ独自の延長理由として1日に4時間以上の連続降雨は1日の工期延長が認められる。
☆ 型枠の階数表示
 柱等立ち上がりと床は別々にコンクリート打設するので、N階の型枠を工程表に表示する場合に、日本ではN階柱と(N+1)階床であるが、ハワイではN階柱とN階床で表示する。一方、サンフランシスコでは(N-1)階柱とN階床であるという。
 以上は一例であって、慣習の違いによる日本との差は他にも多々ある。30年以上前に私が知ったことであるが、基本的にはこのアメリカ流のやり方は現在でもそう変わってはいないと思う。やはり、海外で仕事をする場合には、その国の慣習になじむことが不可欠であることを痛感する。

海外工事の想い出 part2・・・・福本雅嗣
 
最初の工事は、1960年、戦後の賠償の一つとして北スマトラのPT・シヤンタル市に建設された製紙工場。赴任地に着くまで状況は想い出の仕事として既に寄稿してあるので省略し、今回は主に工事現場での出来事を思い出してみたい。
 当時まだ22歳。いくら10数名の小さな会社とはいえ先輩もおりなぜ指名されたかは定かではなかったが、入社時の縁故や、社長の自宅に何ヶ月間か下宿していたなどで社長の覚えめでたかったに違いない。今も昔も変わらぬ自らが認める偉大なる野次馬。断る理由など何もない。
 役割はこの会社が請け負った鉄骨部分の担当。設計事務所から回ってくる図面から、積算いわゆるトン数拾いから見積もり。
 最初に行き詰まったのは船賃計算の際のネット屯とグロス屯の違い。運賃は容積か重量かの大きい方で計算することを始めて知った。国内での時は全く気にしなかったことがいきなり降りかかってきた。海運会社に計算の仕方の教えを請いに行ったことなどまさに盲目蛇におじずそのもの。原寸検査の際どうすれば容積が少なくなるかをずいぶんと検討したことを覚えている。もう一つ戸惑ったのは、積算した鉄骨のトン数が意外と少ないこと。幾度となく計算見直したが間違ってなさそうである。設計事務所の人にどうもトン数が少ないようだがと臆面もなく報告したら構造計算書を読んでくれといわれ、読めもしないの読んだふりをしたら何のことはない地震力がゼロ、風が半分しか見ていない少ないのはあたり前。最後に理屈だけはつけた。積算するとき構造計算書など誰が見るか。(その後この構造事務所の所長には10年以上お世話になった)
 やがて現地入り。初めての航空機(4発のプロペラ機)。渡辺のジュースの素しか飲んだことない若者に機内サービスのオレンジジュースの美味しかったこと、40数年たった今でも鮮やかに甦えってくる。香港、台北、バンコック、シンガポールで終点。一泊してジャカルタからメダンへと。連絡が届いてなく誰も出迎えがなかったことは先回述べた。
 担当する工事現場へ行ってびっくり。基礎が完成していて鉄骨の建て方を始めるのに指導担当者を急ぎ派遣せよとの現地の要請であった筈なのに、この工事では一番小さいREPEIR SHOPの基礎が出来ているだけでメインの建物はやっと根伐が始まっている状態だったこと。このあたりから予定は未定であり与えられていた情報と実際の状態の違いが徐々にわかってくる。今日のような瞬時に情報が伝わることが常識の社会ではとても信じられないと思う。
 現地事務所には、全体を請負った商社の所長と、製紙会社を定年退職してここでの建築部分の全体統括していた建築技術者と通訳(元日本軍人で戦後インドネシアに残留しインドネシア独立戦争に参加した)が先駐していた。現場の作業時間は朝7時から午後14時。とりあえずは、日本から送られてきた資材のチエックやら図面の整理をしていたがそう忙しくはなく多少ひまを持て余していたといってもよい。丁度その時期、その先輩が多分慣れない環境下と思うように工事が進まないなどの心労が重なり再三帰国を要請するようになりとうとう現地の病院に入院してしまった。
 後任が来るまでの間代行してくれないかとの要請があり、断りきれる状況下でなかったことから手伝うことになってしまった。其処からが突然多忙になり、毎日、地墨出し、鉄筋加工図、型枠図面など施工図の作成、材料のデリバリー、更に現場での指導にと連日追いまくられた。作業ペースがそう速くなかったことから何とかこなしきれた。
 結局、本来の担当の仕事に掛かれたのが着任後10ケ月の後になってしまった。
 鉄骨の建て方も機械など何もない。滑車とロープと細いワイヤーロープと手巻きウインチと人力での建て方。
着任当時から気がつき、地組みの段階で確実になったのが当時の現地にはリベットを打つという技術がなかった。再三にわたってこの施工法では無理との報告を上げて変更を願ったが結局は変更を認めてもらえずどうするか悩むことになる。まずコンプレッサーの手配、鋲銃、ふいごがない。コークスは、薪では赤くはなっても打てる状態にはならない。何とかなるもので、旧宗主国だったオランダや旧日本軍が残していった道具が集まったが、使いこなせる職人がどうしても集まらない。教えろといわれても内地の現場では、職人たちの芸術的とさえいえる作業に見とれてはいたものの実際にやったことなど一度もない。結局は、うまく行かなかった。鋲の丁度良い焼き加減がわからない。溶かして変形してしまったり、焼き方不足で打てない、打てても満足な形にならない、など地上ですら不合格続出。次は、架構上部での鋲打ち。鋲足場など組まない。この身軽さにはたまげたが何せ投げられない、受けられない。今日の日本にもすでに残っていない技能ではなかろうか。真っ赤に焼けた鋲を10〜15m上に投げあげ、それを漏斗状の受け皿で受け止める。そしてカシメる。どうしたか。小さなバケツを用意してなかに燃える炭火をいれロープで引き上げる。この方法を日本に報告として写真ともども送ったが他に方法がないのかと一笑に付されてしまった記憶がある。最後はどうしたか、工事途中で現地視察にきた関係者に連日の陳情。結局はボルトに変更。改めて材料が送付されてきて一件落着。とはいえそれまでに施工した施工不十分のリベットを切り取るのが大変な作業であった。今回は、工事のごく一部を象徴的に取り上げてみたが、40数年前ではあるが、情報の取得と伝達、出す側と受ける側との温度差を痛感したことが経験として残った。がその後この経験が役に立ったかどうかは定かではない。
 結局、後任者も派遣されずそのまま3年間を過ごした。

グローバル感覚へ・・・・伊藤誠三
 私の国際的な関係は1968年、万博のコ・アーキテクト業務から始まった。出展国パヴィリオンの基本設計を日本での実施設計に移すのだが、外国建築家との共同作業の間、考え方、習慣の差に戸惑い、驚きを感ずる事が多かった。一つは君主国(ベルギー)であり、他は共産主義国(チェコスロバキア)だった事も良い経験となった。
 万博終了後、ベルギーの設計事務所から誘いを受けて渡欧して以来、延べ10年を超す海外生活を含み、業務の大半を計画発掘から設計監理まで一貫して設計・企画畑ながら、多くの国際的プロジェクトに参画する事になった。
 今では海外に出掛ける事も一般的で、支障は何も無い様に見える。「国際感覚を持て」と、当時言われたような言葉自体がもはや死語となり、今は「グローバル〜」という言い方がされる様になっている。とは言え,海外業務と言うと、必ず言葉が問題とされ、今なお、障壁のひとつかもしれない。その言葉の問題で私の経験した事を考えてみる。
 外国語は結局のところ、「覚える事」、と「慣れる事」に尽きる。このうち「慣れる」内容は何だろうか。
 万博のとき、化粧室の詳細打合わせで、「手を拭くのはどうするか」と聞かれた。「通常、持っているハンカチで拭く」と答えて妙な顔をされた。欧州に旅行した人は、日本人が習慣的にポケットに入れている「ハンカチ」でフランス人は洟をかむのを違和感を持ってみた人も多いだろう。フランス語で「ムーショワール」と言うのだが、「mouchoir」は洟をかむと言う動詞の名詞形で、もともと洟をかむものなのだ。日本人は紙で洟をかむけれど、フランス人は布切れで洟をかむという違いである。輸入されたときに、用途のずれが生じたのであろう。明治以来大量に輸入された外来語、和訳語にこのように変質しているものが結構ある。仕事上、建築用語辞典などで言葉を探して打合わせの準備をしたりしていたが、意味の違いが多く、ついに諦めた事がある。面倒でも原語を再確認する事が必要だ。
 新しい知識や動向の習得には先ず海外の実情調査からという手順は明治以降、今なお続いている日本の手法だが、外国の言葉、概念を導入し、日本の事情に合わせて、中身を改良、適用して行く時、何らかの変質はまぬかれない。ただ、彼我の相違をわきまえておかないと、海外では共有の話題とはなりにくい。
 海外で戸惑うことに人名の発音の事がある。例えば、「コー・タク・ミン」では、「ギョエテとは俺の事か〜」の古川柳を持ち出すまでもなく、江沢民氏はとても自分の事とは思えないだろう。本来の呼び名で話さないと、失礼だし恥ずかしい思いをする。(なぜか韓国人名は数年前から現地音読みになっている。)
 数年前、漢字で表記された万葉集の原詩を韓国語音読みしたら、本来の意味が明らかになったと言う本が刊行され、話題になった。平安時代に日本語で訓み下して意味を当てはめ、その歪みで生じた意味不明部分は曖昧なままに、又は枕詞のように意味が消滅したとして切り捨てたため、本当の意味が隠れてしまったと言うのであるが、同根の現象ではないだろうか。
 最後に結論が来る日本語と始めに態度をはっきりさせる西洋語の違いも大きい。いろいろ事情を述べ立てるばかりで結論が出てこない会話は相手を苛立たせる。といって、外国語表現に慣れると、「そんなにはっきり言っていいのか?」と日本人同僚から心配されたりする。
 もう一つ、「慣れ」を必要とする事に言葉の社会的関係の事があるように思う。日本語は普通、敬称や蔑称など、話者の相手との社会的関係を含んだ代名詞を使って話されている。一方、外国語の代名詞には社会的関係は殆ど含まれない。単に、自分側、相手側、第三者側を示すのみである。この感覚に慣れるまでは言いよどむ事が多かった。日本に戻れば、すぐさま元の話し方に戻らねば、うっかりすると「海外ボケ」などと言われかねない。
 「グローバル〜」という傾向は、もはや日本流の方法、考え方は通じないという事である。設計概念で「ユニバーサル・デザイン」という事がある、又カタカナの新語で恐縮だが、「ユニバーサル・ライフ」を意識して生活してゆきたいと思う。