『書道』は芸術?・・・・・太田統士


作品1

作品2

作品3

作品4

 書道というとニヤリとされる時期がありました。一世を風靡した渡辺淳一の「失楽園」のヒロインが、書道の先生だったからでしょうか。ところが残念ながら我が習字グループは男っぽく、師匠も男性なのです。
 元々の勤め先であった巴コーポレーションの書道部の部員から一緒にやりませんか、と声を掛けられたのが6年前でした。この書道部は創部15年で、事務方が書く文字のレベルアップの目的で創られたのです。と、すれれば「書道」は実用的手段であって、それに神仙的あるいは精神的な修養を加味して「道」と称しているだけとも考えられます。
 もっとも筆を書道などと云う世界を超えて日常茶飯のものとされ、軽妙洒脱で見事な墨跡の書状を下さるのが我らが大先達内田祥哉先生ですが、とうてい余人の真似のできない嗜みと申せましょう。皆さんもよくご存じのことと思います。
 さて、東京芸大はじめ他の美術系大学には書道学科がありません。学芸大学や教育大学に書道教員養成コースがあったり、一部私大の文学部に書道専攻コースがあるようです。
 「書は美術なりや」という論争は、明治の岡倉天心の時代からはじまっていて、もう確定しているのでしょうか?。ただ日展にも書道部門が設けられているし、街の画廊でも絵画などと同等に書展が開かれているのを見ると、美術並に市民権を得ているように思えます。
 前置きが長くなりましたが、作品1は前衛書道の古典とも称される故大沢雅休さんの「洞中仙草」で、右から左へ何となくそう読めます。作品2は99年度の毎日書道展前衛部門の田守光昭氏(審査会員、毎日賞受賞)の作品で、墨絵ではないのかと思われる方が多いことでしょう。「書」である限り文字を横書きは右から左へ、縦書きならば上から下へと書かれているはずで、この辺が見分けどころでしょうか。
 作品3は同年の毎日書道展の私の入選作ですが、いうなれば師匠のお手本の臨書でしかありません。作品4は、今年鳩居堂で開かれた攝真書展(我が書道部の師匠の結社展)での私の作品です。これは書きたいものを自分の思うように書くという書展で、下手なりに楽しめました。
 作品5は唐突にも看板の字です。書道家の石川九揚さんは、「不条理なればこその恋、哀しい結末という『逢いびき』の世界は、尖った字形、ふるえるような直線的構成なればこそ絶妙で、現在の書の水準がこのデザイン文字の水準を凌駕していると果たして言い切れるだろうか」と激しく論評しています。(石川九揚著・「書と文字は面白い」 新潮文庫より)
 絵画のように題名が付かない代わりに、「書」は"言葉や文字の意味"を表現する芸術ではないかと思い始めている今日この頃です。そこで、言葉や文字の意味の上により新鮮な感動を付加することのできる表現を、なんて考えるのは身の程知らずなんでしょうね。

作品5