「懐かしの・・・ラグビー」・・・・ 大野隆司


 「趣味の頁」ということだが、特に趣味は無い。強いていえばスポーツなど、身体を動かすこと。かつてラグビーに打ち込んだ時期もあったが、これは趣味というより仕事に近い。内田祥哉先生からいただく賛辞は今も「成績優秀なラグビー部で主将を務め、4年間で卒業した」である(“成績優秀な”はラグビー部の形容詞で、筆者ではない)。

 高校2年・3年と関東大会出場(図1)、関東大学リーグ戦・対抗戦10勝13敗(表1)。これが高校・大学時代のラガーとしてのめぼしい戦績である。一流からはほど遠いが、身体能力からすれば最善の結果といえる。当時、大学ラグビーは人気があり、明大に勝った時には大新聞の扱いも派手だった(図2)。

 現在、母校は2部に低迷している。当時の対戦相手である早・慶・明とは、2軍はおろか3軍とも試合ができない状況にある。当時はうちも(京大を除く)国立大学との公式戦は2軍主体で大勝したが、今はレギュラーで勝ったり負けたり。同期が東北大と九大でラグビー部長をしているが、複雑な心境という。

 当時は交替制がなく怪我・退場となれば人数が減る。たまたま先輩・同期・後輩にポジション毎、丈夫で、優秀な人材が揃った。ただし、その多くは理科系でまとまった時間がとれないので練習方法はいろいろ工夫した。ラグビーは番狂わせの無いスポーツである。強い方が勝つ、その分、練習のし甲斐があるともいえる。

 卒業後も母校のコーチや勤務先の監督の他、クラブチームに参加するなど、休日の多くをラグビーでついやした。印象に残って いるのはYCAC(Yokohama Country & Athletic Club)という外人チームとの試合。当たりは強烈、骨は太い、皮膚は鮫肌(白人女性崇拝者の気が知れない)。そんなラグビー人生に転機が訪れたのは39歳の時。五臓六腑から四臓五腑の身となり、もっぱら観戦専門となった。秋は母校の、冬は社会人・日本選手権の観戦。観戦の後は反省会と称する飲み会。

 先日、当時の1年から4年までの部員(図3)、数十名に呼びかけ、卒業後40年集会を企画・開催した。当時の高島監督は既に他界のため、奥様をお招きした(図4)。監督の決まり文句は公認会計士という職業のせいか、練習中が「税金掛かっている、早く卒業しろ」、試合前が「タックルしろ、ペナルティするな」だけの潔さ。丈夫ということがレギュラーの条件で、キャプテンの条件はかつ暇なこと。古き人、そして良き時代、と痛切に感じる。

 

表1.関東大学 大野戦績  図1.明大戦40年振り勝利--毎日新聞(1966年秋)

図2.小石川高校ラグビー部同期(1962年秋)さて私はどこでしょう?

図3.東大ラグビー部合宿現役集合(1967年夏)

図4.東大ラグビー部有志卒業後40年(2007年秋)