「 鑑定人の空しさ」・・・・・ 松崎博彦

 建築は人類の生活の基本的な要素である。白蟻が蟻塚をつくったり、すずめ蜂が見事な集合住宅をつくるのと何ら変わらぬ行為である。高度な技術を要するものではない。一方科学技術の進展は地球上のあらゆる分野を侵蝕し、例外なく、その衣を着せようとしている。近年のエレクトロニクスの世界での技術進化はその典型であろう。
 これ以上の技術進化のスピードアップは人類にとって有益なのかさえ疑問になりつつある。そもそも技術の発展はたゆみない検証を糧にしている。自動車産業は100年に及ぶカーレースという実験現場を伝統化してきた。飛行機も船も産業機械も、電化製品も市場に提供された瞬間から猛烈な試練にさらされているから、ここまで来た。世界でトップの地震国に建つ建築は、どうであろうか。
 検証の機会がないままその建物の社会的寿命を終え、建て替えられて、その生涯を終える。そこには、大地震では到底耐えられないであろう設計と不完全施工の建物も無事に終るのだ。
 この不条理をよいことに地震の正体と真剣に向き合う構造技術者の姿が見かけられなくなった。そこにIT技術が巧みに忍び寄る。それは構造解析の分野である。解析技術の進化は究極の発展を遂げるのだが、それに寸法を合わせるために地震力も一律の数字化が必要となった。無感動に置き換え作業が進んだ。そして、更に法律にまでしてしまった。これでほとんど脳死状態の構造設計者の誕生である。
 近年、グローバル化と称する得体の知れないインフルエンザの流行のような風潮は、内部告発を起点にしてあらゆる分野で訴訟社会への移行を容認しはじめた。
 本来、法律は多民族国家で、ルールと約束とマナーの基本として、調和をはかる規範として生まれたはずだが…。今や法律家のゲームの取扱説明書のようにも見える。建築工学の中には、地盤から構造解析、材料力学、仕上げ材、設備機器、施工状況の行動指針に至るまであらゆる分野に法の粉がちりばめられている。
 その数は500を超える規準類の山である。この事実を認識しない裁判官が判決を下すのが実態である。瑕疵という言葉についてもこれは法律上の概念であり、このことに関して法的に素人の鑑定人は論ずることを否定している。ここにも認識の違いが鮮明である。工学の世界の真実は、地球上どこでも一つの方向を示す。柱の座屈は、ドイツでもアメリカでも日本国でも細長比はほぼ同じような数値を示している。地球の引力に差がない限り当然だ。
 しかし法の世界ではよくあることだが、昨日まで通行できた路地が一方通行になった瞬間、法律違反として取り締まられる。
 一方、建築の世界では、建築基準法が制定されてから10回の法改正が行われている。大きな節目は、1981年の新耐震設計法が注目される。その間に10回分の法にそぐわない建物が発生している。その数一千万棟を超えると言われている。これらの建築構造物は「法存不適格建築」という都合のよい言葉を使って巧みに目をつぶる仕組みが出来上っているのだ。私有財産権とか、居住権という憲法上の概念におしつぶされた、言わば、「ヘリクツ」の世界だ。建築基準法は、これに耐えられるほどの法体系としての整備が出来ているとはとても思えない。つまり論理の一貫性に欠けるものが多い。勧告や助言に近いもの、禁止、命令、許可に関するものも一律に立法化されてしまった。運用する立場の裁量権は一切与えない仕組みとなっている。
 このような実情を認識しない弁護士は法廷の場で条文を巧みにあやつって反論の毒矢をはなってくる。そこには工学の庭の議論は全くと言ってよいほど無視される。鑑定人が一番むなしさを感じる瞬間である。
 設計者は法の網を知り尽くした上で設計を行い、更に丁寧に行政でチェックを受けてマーケットへ出荷される設計図書に対してどれほどの覚悟を持っているのか疑問のところがある。特に瑕疵に関する認識はきわめて甘い。責任の分散化が社会の仕組みの中にあみ込まれているのを良いことに安閑としているのかも知れないが、ひとたび法廷の場にさらされた瞬間に集中して一人に毒針が飛んでくる。
 高速道路のスピード違反と同じで摘発された時は、条例通りに粛々と処罰される。仮に時速120kmを超えて走行することが極めて悪質な法律違反だと主張するなら、そのスピードが出る車を製造したメーカーの責任も追及しなければならないはず。
 平均値をこよなく愛する日本民族は古代から「和」こそが全てだとするDNAを受けついでいる。訴訟社会に耐える精神構造は未熟児のままである。このような人種がひとたび争いの場に立たされると、異常なまでに過激になる。
 いたずらに訴訟社会を歓迎するわけではないが、法治国家に生きる技術者として、医学に「法医学」があるように「建築法工学」という学問の創設を急ぐべきではないだろうかという提言をするものである。