「世に残せたものは?」・・・・ 泉 清之

 現役時代、多くのシステムの開発に携わった。まず躯体積算のシステム、これは昭和38年入社当初に「こんな非創造的な仕事は、電子計算機で」と配属になった積算課の課長に配属への不満をぶつけたのがきっかけとなった。
 それ以来、退職に至るまでIT関係の仕事から離れることがなかった。実に口は災いのもとである。積算配属から3年目を迎え、やっと現場に出られると思っていた矢先、「電算機を導入することになったので、自分で・・」との命が下った。電算機の何たるかは良くわからず、また、世の中に積算業務の電算化の実例もない。FORTRAN言語を習得し、効率的な入力方法の研究を重ね、2年あまり掛けて、柱・梁・床版・壁・雑物と逐次実用化していった。電算機導入とはいっても社内にものがあるわけではなく、社外センターに出向いて利用する、あるいはデリバリーを利用するといった形態であり、不便で非効率な開発・運用環境であった。
 その後、電算機の自社導入に伴い情報システム部門に異動し、プロッタを利用した自動製図システムやCADシステムの開発に携わることとなった。CADは大型計算機にグラフィック・ディスプレイ装置を端末として繋げて運用する形態で、端末1台のレンタル料が100万円、新入社員約30人分の給与に相当する高価な道具であった。CADは高度な開発技術を必要とする。このため自動車、航空機、造船など他産業の人達とCADシステム開発技術の研究会を開催し、技術の向上を図った。こうした技術を元に「企画設計支援システム」(日影や斜線制限などの法規を満足する建物外形を検討するためのシステム)を開発し、業界で初めてシステムの外販も開始した。
 現在、建築分野ではAutoCADやJWCADが汎用製図CADシステムとして普及しているが、当時はロッキードの子会社が開発したCADAMくらいしかなく、これをベースに意匠・構造・設備の設計を統合的にカバーする「建築設計統合化システム」の開発に着手した。
 システム開発を容易とすべく、米国に何回も出向きCADAM開発者と折衝を重ね、よりオープンなシステムへの改善要求をしたが、同社内ではアプリケーションも含め、全て自分たちで開発すべきとする意見も多く、我々の要求はなかなか受け入れられなかった。こうしたことから、結局は満足のいくシステムを完成させることが困難となり、実務への適用は断念せざるを得なかった。
 その後、よりオープンなAutoCADが普及し、CADAMは機械設計分野で細々と生きながらえている。オープンであることの重要性が再認識される。
 パソコンやネットワークの普及に伴い、現場を含む生産系へのコンピュータ利用に重点が置かれるようになり、生産部門兼務で電子購買や現場管理システムの開発も行った。
 このように多くのシステム開発に携わったが、実はこれらのシステムの内、現在も継続利用されているものは、極めて少ない。これは大型コンピュータをベースに開発したシステムのパソコンへの移行を含め、システムのメンテナンスに多大な費用を要し、自社システムの継続保有が困難となってきたためである。保有するシステムの数が多ければ多いほどその費用は膨大となる。一方、市販システムが多く出回るようになり、自社保有のコストを考えれば、ある程度の不満はあっても、これらの市販ソフトに依存せざるを得なくなっている。業務手順をシステムに合わせて変更することも少なくないと聞く。
 こうした時代が到来することは当時ある程度予測され、大手5社の情報システム部門長の懇談会で、各社システムの共有・共同利用について提案し、おおかたの賛同は得たものの、その調整に時間を要し、ついに実現することなく退職を迎えてしまった。
 自分たちが産み、育ててきたシステムが死滅していく状況を見聞きし、現役時代を振り返るとき、自分たちがしてきたことは何だったのだろうかという思いに至る。物作りの喜びを味わうべく選択した建築分野で、建物ではなくシステムが物作りの対象とはなったが、造ったものの生命はあまりにも短くはかない。人間が創造する物で、悠久の時を経て残るものは少なく、創造物の死滅はそれを造った技術者の宿命と言えるのかもしれない。「自分が世に残したものは?」などという思いはあるが、時代が必要としていたのだから、また造る過程で苦しみと同時に楽しみも十分味わうことができたのだから、それで由とすべきであろうと自らを納得させている。