もう5,6年前になるだろうか,神保町で「古事記以前の書」という本を見つけて以来,古代史にはまる事になった. それは神代文書「ウエツフミ」の研究という副題がついていたが,神武以前の71代の天皇系譜が記されているという.他にも秀真伝,天書紀,但馬故事記,襲国偽僭考,桓檀古記等々,国内のみならず,東アジアに亘る数多くの古史古伝があり,それらが抹殺された敗者の記録だと言う点に大いに興味をそそられた,現存の歴史は勝者が自らの正当性を示す為に編集されたものであり,日本書紀も12回もの改竄があったという説がある.
その後,「古代史教養講座」という古代史研究グループに参加した.このグループは敢えて言えば,史書や定説を疑っている人達の集まりで,古代を巨視的に偏見なく見直そうというのである.私も多くの海外体験から,国内で得た知識や通念には偏りや誤りが多いと実感しているので,思考の場としては所を得たという気がしている.
妙に聞こえるかもしれないが,歴史はどんどん新しくなっている.近年の歴史研究は戦前の皇国史観から開放され,開発工事に伴う遺跡の検証で新しい考古資料の発掘もあるが,なお証拠不足であり,まだまだ素人の推理,憶測の入り込む余地がある.
このゼミでは史実検証の為,テーマに沿って各地の遺跡も訪れる.
昨秋は中国東北部,北鮮側国境,鴨緑江岸集安市にある高句麗・広開土王(好太王)陵及び碑を訪れた.4C後半の倭との関係が刻まれた重要な史跡である.世界遺産に登録され,訪問できることになったからである.居城とされる丸都城址も現地確認したが,山稜にあり,高句麗に対するイメージを一新した.騎馬民族ともいわれるが,そこは優れた騎乗の技術を駆使,騎射を武力として疾駆する空間ではない.高句麗の実態は匈奴,柔然と続く遊牧国家の姿とは全く違ったものではないのか.馬文化はあったろうが,今も中国山地で重用される駄馬の類だったのではないか.発掘された馬具から安易に騎馬民族と類推するのは早計に過ぎると思われる.馬も小型で,中国皇帝が危険を冒し,万金を投じて西域に大型の汗馬を求めた理由もわかろうというものである.
というわけで,現地訪問での実感は想像に新展開をもたらす.推理の幅が広がり,探りたい課題が更に表れる.どうですか,皆さんも古代ロマンの海で泳いでみては?
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好太王碑1:ガラス張りの覆い屋が掛けられてしまった
好太王碑2: ガラス越しに倭の字を探す
好太王陵:墓守に指定された300家が指名されている
好太王妃陵: こじんまりと寄り添うように
丸都城跡:198年 高句麗の築城
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