「建設労働力について考える」・・・・ 伊藤誠三

 今,経済学では建設労働力についてどのように考えているのだろう.もう遠い記憶になったが,大学で経済学を学んだ頃,例えば,賃金の決定は其の近代的な理論にも拘らず,現実には当時,吹き荒れていた労働争議での力関係で決まるような事に不信感をもっていたものだ.
たまたま学外で知り合った経済学の先生にそのような理論と現実のギャップについて尋ねたりしたが明快な答えはなかったように思う.ただ,其の時の記憶に残っているのは,建設業は経済学の対象外だという話だった.
建設需要は景気対策としての公共投資として政治的に創出され,出稼ぎという季節労働者が主に農業部門から不確定に移動するため,労働人口がつかめない,というような事だったと思う.発展途上中の経済状況だった所為だろうか.
 現在の建設不況について, 経済の低迷から一般設備投資が減少し,公共投資も削減され,いわゆる,パイが小さくなったという説明は多いが, 詳細な考察はあまり聞かない.専門外の考察ではあるが,現場の目で思いをめぐらすと,第一に設計,施工技術面で省力化が進んでいることが挙げられる.昔の話になるが,大阪万博のとき,それまでコンクリートにはモルタル塗というのが標準だったのだが,短期間の膨大な工事量に左官手間が高騰するという動きに,左官工事を省く設計をした事を覚えている.其の頃,工事における左官のシェアが20パーセント近くあったらしいが,今は1パーセントを切っているという.その後もタイル工事が樹脂加工品に代替されたり,機械化など,手間を省く施工技術が進んで,必要建設労働力が大幅に減少したのである.更に,工業化その他の開発手法で工期も短縮された.高能率化が消化を早め,長期的には工事量が不足することになった. つまり早く多く建てすぎたのである.
 もう一つの問題は1990年ごろだったか,米国でコンピューターの急激な普及で業務が高能率,省力化され,多くのレイオフが発生し,デジタルデバイドなどと言う現象がおきたことがあったが,余剰の労働力はサービス業へ流れ,新しい社会構造となったと聞く.日本では,コンピューター導入後の省力化により生まれた筈の余剰労働力は企業内に温存され,其の後の人あまりともなったようだ. 所謂,問題の先送りとなった.
 一方で,日本の食料自給率がわずか20数パーセントであるという事を聞くと,直感的には危機的状況と思い,建設業における余剰労働力が食糧増産のほうに廻ればどうかと思いつくが,必要量を多方面に依存している方が食糧危機ということからは安全だという経済学者もおり,また,世界的な需給バランスを考えると,事はそれほど簡単ではないらしい.
 それにかつて季節労働者として農業から建設業に移動したときは比較的単純労働の提供でよかったが,農業は自然と植物を相手の経験と知識を要する分野であるから,単に人手が余っているからといってできるものではない.
 更に,国内需要の変化や,外国産農産物との競合など,農業自体が抱えている問題もある.
 以上のことは建設労働力の量的な問題であるが,質的な問題はどうか. 近年の動きとして, 一般に成果主義,能率評価の給与体系の導入の動きが喧伝されているが,これらが建設業に適合するだろうか. 建設工事はほとんどすべてが条件の異なるものだから,均等な尺度で評価することは難しいし,建設業では必須のチームワークをどのように評価するか,更に若年層への技術伝承も必須であり,これらの努力をどのように評価するかも難しい.
 また,経営採算のため,フリーターと呼ばれる非正規社員の採用が増えていると聞くが,其のような人的構成では,職業経験や能力の蓄積の差が拡大して階層分離が起こるだろう.  従来,優秀な人材確保のために従来,社内で行われていた教育は成果主義の下に個人の努力に任せられることになり,これらのことはやがて建設の品質確保に大きな影響をもたらすに違いない.
 いま,不況といわれる状況は結局のところ,建設労働力の人余りであり,この状況は産業界全体における労働力の質,量の適正再配分として解決が図られねばならぬことではないだろうか.
 構造改革が政策として声高に叫ばれているが,其の目標はそれほど明確な形が示されているわけではない.余剰の労働力は米国の先例のように,どこかにある必然で吸収されてゆくのだろうが,そのようななし崩しの決着を見るのではなく,広い視野に立った経済学的,社会学的視野,更には経済地理学的な考察による明確なガイダンスが必要だと思う.  (了)